相模大山の絵はがき 大山山内

公開日 2012年10月04日

大山山内

 

ここから昭和6年から19年まで運行された大山ケーブルカーの会社が発行したパンフレットを参考に大山の入口から山頂までを絵はがきでたどりたいと思います。

絵はがき大山山内

三の鳥居

 

 現在三の鳥居と呼ばれる大鳥居をくぐると、大山の境内地になります。ここは新町と呼ばれ、江戸時代寛文6(1666)年7月の大洪水により大山坂本村の霞川原と上子易村の一部を交換して生まれました。

絵はがき6大山登山入口

6 大山登山入口

江戸時代の天保15(1844)年4月に青銅の鳥居が奉納されました。五雲亭貞秀の錦絵「相模国大隅郡大山寺雨降神社真景」に描かれた鳥居と思われます。これが安政元(1854)年の大火で焼失し、明治7(1874)年に再建されています。

写真の鳥居は大正10(1921)年に東京消防せ組により奉納されたものです。ここを過ぎるとすぐに「二つ橋」です。

 

 

 

絵はがき7 相模大山社務所庭園

7 相模大山社務所庭園

明治維新による神仏分離までここには大山寺別当八大坊の下屋敷(下寺)がありました。現在は大山阿夫利神社社務局となり、例年秋には火祭り薪能がここで開催されています。

 

大山は上から稲荷町・開山町・福永町・別所町・新町の5町に分かれていましたが、新町を除き、各町内に滝があったといいます。

絵はがき8相模大山名勝新瀧

8 相模大山名勝 新瀧

阿夫利神社社務局がある福永町の滝です。新滝あるいは愛宕(あたご)滝と呼ばれています。良弁滝や大滝より後に造られた滝と考えられます。

はがきの左手に大山講中の名が書かれている布まねきがあります。

絵はがぎ9相州大山大瀧

9 相州大山 大瀧

別所町にあり、神奈川県西部からの参詣客が利用した秦野市寺山からイヨリ嶺を越えて社務局のところへ至る大山道(坂本道とも)に面しています。沢の岩盤を切り取り造られたともいいます。「禊の大滝」と呼ばれ、浮世絵にも描かれました。関東大震災で岩が崩落し、滝壺が狭くなったといいます。

絵はがき10相州大山名所良弁ノ瀧

10 相州大山名所 良辨(弁)ノ瀧

大山の滝の中で最も親しまれた滝といえます。北斎や広重らの浮世絵にも数多く描かれています。

良弁とは奈良時代・天平勝宝7(755)年に大山寺を開創した僧の名で、滝に向かい右手に良弁僧正を祀った開山堂があります。関東大震災後の土石流により良弁滝の周辺はすっかり変わってしまったようです。開山堂も他の古い絵はがきによると、滝より少し鈴川の上流側にあったようです。また当時、堂の前には良弁女滝もありました。

写真は滝壺に入り、参拝前の水垢離を取っている風景です。何も身に着けていない人も見受けられるようです。

 

 

 

11 相刕大山名所、12 相州大山名所 元瀧

坂本町にあります。落下する水量は少ないようですが、とても優美な滝といえます。絵はがき11相刕大山名所 絵はがき12相州大山名所元瀧

絵はがき13相州大山名所八段ノ瀧

13 相州大山名所 八段ノ瀧

元滝を過ぎ、鈴川(大山川)に架かる雲井橋を渡ると参道から右手に入る道があります。ここからしばらく上流に向かって歩くと河床が段々になっている場所があります。

ここは夏場の子供たちの格好の遊び場でした。滑り台のように滝をすべり、名物であった岩のりを取って帰り喜ばれたといいます。現在は水源保護のため立入禁止です。

14 相州大山 二重社呪ノ杉、15 大山名勝 二重ノ瀧

八段の滝の上流部にあたります。現在は上記の理由で一般の通行は禁止されていますが、かつてはここへも沢伝いに道があり、登ることができました。

下の写真は14が関東大震災前で、右側15が震災後、おそらく昭和に入ってしばらくたった頃と推測できます。左手が震災により倒れた丑の刻参りの「呪いの杉」で、滝の右手二重社の前にありました。現在では後を継いだ呪い杉も倒れています。

絵はがき14相州大山二重社呪ノ杉絵はがき15大山名勝二重ノ瀧

 

 

絵はがき16相州大山男坂上り口追分社

16 相模大山男坂上り口追分社

阿夫利神社下社に至る男坂・女坂の追分にある追分社(八意思兼・やごころおもいかね神社)と男坂上り口の石段です。

かつては大鳥居や茶店もあったようです。江戸時代は前不動堂で、水垢離をとる滝(追分滝)もありました。

絵はがき17相州大山紅葉橋

17 相州大山紅葉橋

女坂を登り、現在の大山寺の少し手前の沢に架かる紅葉橋です。木材の上に土を入れた橋と竹製の欄干、紅葉の頃の風景が想像できます。

橋の向こうには子育て地蔵の石像、ここから弘法大師の爪切り地蔵までの間の石段はとても風情があります。

 

大山ケーブルカー

昭和6年に開通し、戦争の激化に伴い昭和19年に撤去されるまで、大山鋼索鉄道株式会社により運営されました。同社のパンフレットによると「乗り心地がよく動揺の少ないのは東洋一」とあり、料金は上り35銭、下り30銭、往復60銭でした。

絵はがき18相刕(州)大山ケーブルカー追分駅
18 相刕(州)大山ケーブルカー追分駅
絵はがき19〔相模大山名勝〕大山ケーブル遠望
19 〔相模大山名勝〕大山ケーブル遠望
絵はがき20大山ケーブルカー(不動尊駅)
20 大山ケーブルカー(不動尊駅)
絵はがき21ケールカー下車駅
21 ケーブルカー下車駅
絵はがき22相州大山不動尊

22 相州大山不動尊

江戸時代末まで現在の阿夫利神社下社の位置にあり、大山のお不動さんとして親しまれてきました。神仏分離により現在の地に移りました。現在の不動堂は明治18年に竣工したもので、総ケヤキ造です。関東の近代社寺建築を代表するものともいえる建物です。本尊鉄造不動明王及び二童子像は国の重要文化財に指定されています。

絵はがき23大山宝篋印塔

23 大山宝篋印塔

江戸時代、寛政5(1795)年に造立された銅製の宝篋印塔(ほうきょういんとう)です。江戸湯島の大善院という寺の僧侶が発願主となり、伊豆・駿河・甲斐・武蔵(江戸を含む)の人々の助力で、恐らく300両を越える金額で造られたようです。江戸の有名な鋳物師・西村和泉守が鋳造したようです。

総高が約11メートルもあり、銅製の建造物としては、国内でも有数なものではないかと思いわれます。

宝篋印塔は宝篋印陀羅尼(ほうきょういんだらに)を納める塔ですが、天地長久、四海泰平、風雨順時、万民快楽、参詣諸人の諸願円満などを祈っての造立でした。

 

阿夫利神社下社

明治初年の神仏分離により大山寺不動堂を取り壊し阿夫利神社下社を置き、山頂の石尊大権現社が阿夫利神社本社となりました。

25の大山頂上登り口は、江戸時代は旧暦6月から7月の20日余り開門され、山頂への登拝が許されていました。現在でも7月27日に門を開扉する行事が行われています。

絵はがき24相州大山阿夫利神社拝殿
24 相州大山 阿夫利神社御拝殿
絵はがき25相州大山頂上登り口
25 相州大山頂上登り口

 

下社から大山頂上 

絵はがき26相州大山ボタン岩

26 相州大山ボタン岩

下社登拝門から山頂本社を目指す参道には、様々な名所・旧跡といえる場所があります。八丁目には「夫婦杉」、十四丁には26の「ボタン岩」があります。風化により岩がキャベツ状に渦を巻いているように見えることから、「ボタン岩」となったようです。

絵はがき27相州大山名所縁結の樹

27 相州大山名所 縁結の樹

縁結の樹は江戸時代からあるもので、国芳の浮世絵にも描かれ、昭和2年小田急線開通時に刊行された「阿夫利神社参詣便覧」にも掲載されていますが、現在では「縁結の樹」の詳しい位置は不明です。

絵はがき28大山御中巡ノ鳥居

28 大山御中途巡ノ鳥居

十六丁にあります。明治34(1901)年年に東京の銅器職講により奉納されました。東京市内の銅器職人を中心とした大山講です。

110年ほど前の鳥居ですが、すばらしいもので、大切に保存したいものです。

絵はがき29相州大山御中道廻り

29 相州大山 御中道廻り

大山山頂にも富士山と同じように御中道があり、山頂の少し下をぐるっと回ることができました。信仰のためばかりではなく、山頂の社殿を火災から守るための意味合いもありました。山頂下の草木をぐるっと刈りあげ、類焼を防ぎました。

御刈廻しともいいます。

 

山頂

絵はがき30相州大山絶頂本社
30 相州 大山絶頂御本社
絵はがき31相模國大山阿夫利神社本社
31 相模國大山阿夫利神社 本社
絵はがき32相刕大山絶頂御本社
32 相刕大山絶頂御本社
絵はがき33相刕大山雨降木
33 相刕大山雨降木

上の2枚は関東大震災前の写真と思われます。社殿は震災により倒壊しています。 雨降木はブナの木で、気流により枝に水滴が付着することからこのように呼ばれたものと思われます。

写真の木は残念ながら枯れてしまいました。

大山からの眺望

絵はがき34大山名勝大山より富士山ヲ望む
34 大山名勝 大山ヨリ富士山ヲ望ム
絵はがき35大山名勝拝殿より大島を望む
35 大山名勝 拝殿ヨリ大島ヲ望ム

上の外、大山からは房総・伊豆・東京・横浜方面の眺望も楽しめます。快晴で比較的風が強い日は、まさに34のように山頂から雄大な富士が望めます。

絵はがき36〔相模大山名勝〕大山山頂見晴台

36 [相模大山名勝]大山山頂見晴台

大山から日向へ向かう道、「日向越え」が九十九曲りにさしかかるところに立つ地蔵尊石像が写っています。「勝五郎地蔵」と呼ばれ、嘉永6(1853)年に建てられました。

勝五郎は地元民として、最初に信州高遠の石工からその技術を伝えられました。

先述の秦野市寺山から大滝へ通じる大山道にも、勝五郎作の地蔵尊石像があります。

 

 

 

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