平安時代 

公開日 2012年10月04日

いせはらの歴史

平安時代

村の生活

延暦(えんりゃく)13年(794)、桓武天皇(かんむてんのう)は京都に都を移し、そこを平安京と名付けました。ここに王朝文化が花開く平安時代が始まりました。

市内の平安時代の遺跡からは、奈良時代と同様に竪穴住居(たてあなじゅうきょ)と掘立柱(ほったてばしら)の建物の跡が並んで発見されます。東大竹の市場(いちば)遺跡、沼目の天王原(てんのうばら)遺跡、坪ノ内の榎戸(えのと)遺跡などでは100軒を超える住居跡が見つかっており、前代と同様の場所に多くの人々が暮らしていたことが分かります。発見された遺物の中には、東海地方や関東各地で作られた土師器(はじき)や 須恵器(すえき)もあり、各地との交易はあいかわらず活発だったようです。また、うわぐすりをかけて焼いた愛知県や岐阜県産の陶器、役人の身分を表すベルトの飾り金具などは、中央から派遣された身分の高い人の存在をうかがわせます。

東大竹の市場遺跡では十数棟に及ぶ倉庫群の跡とともに、倉庫の鍵、貞観(じょうがん)12年(870)に鋳造された銅銭「貞観永宝」、墨で文字が書かれた土器などが発見されています。さらに、田中の酒林(さかばやし)遺跡では鉄製の道具を製作した鍛冶工房(かじこうぼう) が見つかりました。市内では特にこの時代の前半期に住居の数が増え、集落の規模も大きくなりますが、時代が下るにつれてその数も規模も縮小されていくようです。

成瀬第二地区遺跡群 井戸の写真
成瀬第2地区遺跡群で見つかった井戸
 
東大竹・市場遺跡の高床式建物群写真
東大竹・市場遺跡の高床式建物群
柱穴が方形に配置されています。

 

武士の台頭

京の都を頂点として日本列島各地は中央集権体制に組み込まれたかに見えましたが、平安時代も半ばを過ぎるとあちらこちらに綻(ほころ)びが生じ始めました。

中央の貴族や寺社は荘園(しょうえん)と呼ばれる私的所有地を拡大し、律令制の財政基盤であった土地制度を根本(こんぽん)から覆(くつがえ)す結果を招きました。朝廷の地方支配は弱体化し、各地で武装化した地方豪族が権力を握るようになりました。朝廷はこうした地方の武装集団に対抗するために、やはり同じように武力をもつ者に頼らざるをえなくなり、結果として武士団の形成に拍車をかけることとなりました。

平清盛(たいらのきよもり)は、天皇と姻戚(いんせき)関係を結び、平氏政権を打ち立てました。しかし、それは逆に強い反発を買い、東国で力を蓄えつつあった源氏を挙兵させることとなりました。源平合戦はその舞台を西へ西へと移しながら激しさを増し、文治(ふんじ)元年(1185)、壇ノ浦(だんのうら)で平家一門が滅亡して幕を閉じます。

源氏の棟梁(とうりょう)である源頼朝(みなもとのよりとも)は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命され、建久(けんきゅう)3年(1192)、鎌倉を本拠とする幕府を開きます。この鎌倉幕府の創立以後、明治維新に至るまでの650年余りにわたって、武士の世が続くことになります。

浮世絵 芳幾作 源頼朝旗上筏之図

              江戸時代に描かれた浮世絵
石橋山の合戦で破れた頼朝が房州へ落ちる場面。後方には岡崎四郎義実の名が見えます。

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