名優たちの競演(芝居絵に見る大山参詣)

公開日 2013年05月09日

名優たちの競演(芝居絵に見る大山参詣)

 

大山参詣が盛んになると、芝居や落語にも題材として取り上げられるようになりました。落語の「大山詣」のように現在でも上演されるものもあります。大山に関する歌舞伎についての研究は未だという状況ですが、いくつかは外題・初演等がわかっています。伊勢原市史の成果をもとに概観してみたいと思います。

ここに取り上げました浮世絵(錦絵)を見ると大山の大火(安政元年末~2年初・1854~55)以前の絵は少なく、その大半は御師の集落から大山寺不動堂まで焼き尽くしたという大火以降の絵です。幕末の騒然たる世の中にあって、大山もその波を受けたことは事実ですが、多くの支援を受けて復興が図られたものと思います。

芝居絵も江戸から大山山内~山帰りと進めてまいります。

日本橋

浮世絵 国輝「大山参詣日本橋之図」

          国輝「大山参詣日本橋之図」慶応2(1866)年

大山参詣を描いた浮世絵のうち、芝居絵に登場する男たちは美男ばかりで、鯔背(いなせ)な勇み肌の若者ばかりです。江戸の大山講中は、下町の職人たちが多かったといいます。そのような威勢のいい男たちを主人公にして、芝居に仕立てたのでしょう。

この絵の場面は、夜の日本橋の上。「大山石尊 大天狗 小天狗 大々叶」と書いた木太刀を担いだ男を中心に、鯔背な5人の男が、これから相模大山へ向かおうとするところを描いたものと思われます。

広重描くところの「大山道中張交図会」には、夜、日本橋の夏の名物「麦湯」を飲んで、大山へ向かう一行が描かれています。夏の暑さを避けるため、夜、大山へ出発したようです。

浮世絵 一英斎芳艶「當ル千金宝大山」

          一英斎芳艶「當ル千金宝大山」 文久2(1862)年

夜の大山を背景に、左から中村芝翫、市村羽左ェ門、河原崎権十郎が描かれています。

浮世絵 芳虎「大山石尊大権現(仮題)」

          芳虎「大山石尊大権現(仮題)」 文久2(1862)年

中央、大山石尊を背景に鈴を持った中村芝翫、右に「猿若」と書かれた提灯を掲げた坂東彦三郎、左に「石尊大権現」という朱文字の木太刀をもつ河原崎権十郎。向かって大山の左側に「箱根山」、右手に「秩父山」が描かれています。

浮世絵 一勇齊国芳「大山良辨瀧之図」

          一勇斎国芳「大山良辨瀧之図」 (天保期)

大山へ木太刀、御神酒枠を担いで至り、良弁滝で水垢離を取り、山頂の石尊大権現をめざす様を描いています。三枚続きの絵ですが、合計11人もの歌舞伎俳優が登場しています。
 木太刀、御神酒枠の絵には市川海老蔵、水垢離風景には沢村訥升、山頂への絵には市村羽左ェ門、坂東彦三郎、中村歌右ェ門などが登場しています。

浮世絵 国周「見立水滸傳當瀧壷」

 国周「見立水滸傳當瀧壷」 慶応3(1867)年

見立てとは「なぞらえる」ことで、ここでは中国の小説『水滸伝』に登場する宋の朝廷に抵抗する「梁山泊」に集まった豪傑の一人、美貌の女性のうえに武芸に秀でた「扈三娘(こさんじょう)」になぞられています。「扈三娘の市」として市川団十郎が滝を背景に諸肌脱いで、黒地に赤で「奉納 大(文字不明)大権現」と書かれた木太刀を持って立っています。

浮世絵 豊国「大當大願成就有瀧壷」

          豊国「大當大願成就有が瀧壷」 文久3(1863)年

7人の男たちが滝で水垢離を取る場面です。中央に「奉納大山石尊大権現 大天狗 小天狗 天下泰平国土安穏講中安全」と書かれた大きな木太刀を据え、鈴を持つ男4人、小さな木太刀を持つ者が3人います。左端の男のみ手を組み祈っています。

滝の水の青に対して褌の赤が目立ちます。当時の褌は見せるものであったという説もあります。

浮世絵 豊国「御□(贔屓)大山有難壺」

豊国「御□(贔屓)大山有難壺」 万延元(1860)年

本来3枚続の絵ですが、右・中央のみで、左の絵がありません。左は鈴を咥(くわ)えたやはり刺青姿の男が描かれています。

大山の滝を背景に赤い褌姿の鯔背な男たち。「奉カ納 大山石尊大権現 大天狗 小天狗」と書かれた木太刀を持っています。

浮世絵 豊国「石尊大権現嶮路登山ノ図」

豊国「石尊大権現嶮路登山ノ図」 万延元(1860)年

大山の中腹、不動堂(現阿夫利神社下社)から石尊社にいたる道は、今でも「険路」です。若者でも容易に登れるものではありません。その険路を手を取り合い助け合って登る様を描いています。
 この絵柄には、チリメン絵となっているものがあります。

 

神仏分離後の芝居絵

明治初年の神仏判然令により、相模大山は大きく変わりました。石尊大権現が大山阿夫利神社となり、大山寺が現在地に移され、大正期まで大山寺ではなく明王寺を名乗っていました。また多くの仏教関係の文化財が流失・消滅しました。

しかし、庶民の大山信仰はそうした中でも続いていました。明治期にも多くの浮世絵に大山が登場することからもいえます。

浮世絵 豊原国周「伍俳優時世大山」

          豊原国周「伍俳優時世大山」 明治15(1882)年

「ごにんづれときにおおやま」と読みます。男三人は髷(まげ)姿ではありません。

浮世絵 豊原国周「不動の文次ほか三人の役者絵(仮題)」

          豊原国周「不動の文次ほか三人の役者絵(仮題)」 明治16(1883)年

不動明王、矜羯羅童子、制吒迦童子の不動三尊になぞらえて、中央滝の水を浴びる尾上菊五郎の不動の文次、こんがら幸次の坂東家橘、背高清太の片岡我童の役者3人。幸次は「御札」を持ち、清太は「奉納大山大権現」と書かれた木太刀を持っています。「石尊大権現」から「大山大権現」と、木太刀の文字が変わっています。

浮世絵 豊原国周「不動文治のほか三人の役者絵(仮題)」

        豊原国周「不動文治ほか三人の役者絵(仮題)」 明治16(1883)年

滝の前の紅葉、季節は秋。前の浮世絵と同じ不動の三尊になぞらえたものです。配役も同じです。幸次は幸治となっています。文治の背には、不動明王の彫り物、幸治は梵字が書かれたお札を持ち、清太は前の絵同様「奉納(大山大)権現」と書かれた木太刀を持っています。阿夫利神社ではなく、大山寺の景ともいうべきものになっています。

浮世絵 豊原国周「花の顔姿の瀧壷」

        豊原国周「花の顔姿の瀧壷」 明治18(1885)年

左端に「大山石尊神」と朱文字の木太刀を掲げる男(市川左団次)がいますが、大山信仰とは余り縁がないと思われる人物が登場しています。尾上菊五郎の尾形地雷也、市川団十郎の文覚上人、中村福助の照手姫などです。

「大権現」という標記ではなく「大山石尊神」と、しっかり神仏分離がされています。

浮世絵 豊国「東海道藤沢平塚間 四ッ谷山帰り」

豊国「東海道藤沢平塚間四ッ谷山帰り」嘉永5(1852)年

藤沢の四ッ谷の場面ですが、大森名産麦わら細工の「まとい(纒)」を担いでいます。「山帰り」というと「まとい」という約束が、芝居の上ではあったのかもしれません。

浮世絵 豊国・広重合作「東都冨士三十六景 高縄」

豊国・広重合作 「東都冨士三十六景 高縄」 万延元(1860)年

高輪の海岸を背景に、山帰りの夫婦を描く芝居絵です。二人の衣装からは夏山というより、寒い時期のものと見てもとれますが、よくわかりません。「江戸っ子のやせ我慢」で、暑くてもこの格好という意見もあります。

「まとい」を担いでいます。

浮世絵 豊国「今四天王山帰り」

豊国「今四天王山帰り」 安政5(1858)年

平安時代の部将・源頼光の四天王(坂田金時、渡辺綱、碓井貞光、卜部季武)になぞらえた4人の鯔背な男たち。大山帰りということで、「まとい」を担いでいます。

浮世絵 一壽斎芳員「流行浄瑠璃双六」

一壽斎芳員「流行浄瑠璃双六」 
安政6(1859)年

文政6年(1823)初演の清元(浄瑠璃の一派)「山帰強桔梗(やまがえり まけぬ ききょう」は、江戸で大流行しました。それを「流行浄瑠璃双六」の一こまに入れたものです。

「・・・魂棚かざるわが宿の 後は野となれ山参り 何のその男は裸百貫の かけ念仏も向う見ず 夜山で盆をすっぱりと 切払ったる納太刀 諸願定宿子安までおりて ・・・四谷ではじめて逢うたとき 好いたらしいと思うた が 因果な縁の糸車 めぐりめぐって大山も 石尊さんの 引合せ ・・・」

浮世絵 一英斎芳艶「身の元厳重太夫 山上り強気姓」

一英斎芳艶「身の元厳重太夫 山上り強気姓」
文久2(862)年

「みのもとげんじゅうだゆう やまあがりまけぬきしょう」と読み、大山帰りを題材とした清元「山帰強桔梗」の文句を替えたものです。当時流行した麻疹(はしか)の風刺絵です。

「何のその男は麻疹やかましい 酒をのむ人は向う見ず 夜中に咳をすっぱりと」といった調子です。

 

浮世絵 豊国「七変化の内 ちょぼくれ 坂東三津五郎」

豊国「七変化の内 ちょぼくれ 坂東三津五郎」
文化8(1811)年

奉納大願成就大叶」と書かれた木太刀を持つ男。

文化8年、江戸市村座で坂東三津五郎が演じた所作事(歌舞伎舞踊あるいは舞踊劇)七変化中の「願人坊主」です。七変化とは「女三の宮・梶原源太・汐汲・猿回し・願人坊主・老女・関羽」の七役を演じたことをいいます。

「ちょぼくれ」は江戸時代後期に流行した大衆芸能といいます。「ちょんがれ」ともいいます。囃しことばに「ちょぼくれ ちょぼくれ」、「ちょんがれ ちょんがれ」と唱えたことによります。

梅堂国政「花栬法音楽」 明治6(1873)年

花栬法音楽(はなもみじのりのおんがく)と読みます。

明治6年9月東京村山座(市村座が改称)での2番目大切浄瑠璃で、大山の親雷・人形遣いを尾上菊五郎、子雷を菊之助がつとめました。

大山の雷といえば、昔から音ばかりといわれてきましたが、何か関係があるのでしょうか。

 

大山参詣になぞらえた絵

浮世絵 無款「石尊詣雲桟道」

          無款「石尊詣雲桟道」 明治元(1864)年

「石尊詣」とありますが、絵に付いている文字を読むと全く大山参詣には関係なく、参詣になぞらえて、歌舞伎界という山に登るための裏話がいろいろと書いてあります。「どうして出世したんだい」「誰々の引きで」といった案配です。

伊勢御師(おんし)、大山道者、芸人等々乗り合わせ

浮世絵 豊国「五拾三次ノ内大磯 馬入川渡シ場」

          豊国「五拾三次ノ内大磯 馬入川渡シ場」 嘉永3(1850)年

江戸市村座で嘉永3年5月に初演された「忠臣蔵五十三紀(ちゅうしんぐらごじゅうさんつぎ)」の四幕目・馬入川渡し場の景を描いたものといいます。

中央やや右手に「奉納大山石尊 大天狗 小天狗 大当叶」と書かれた木太刀を持つ男が立っています。そのほか伊勢の御師(おんし)や巡礼者、猿回しなどがいます。

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