公開日 2013年06月03日 伊勢原の指定文化財 伝妙沢不動尊版木 読み、指定、種別、数量、所有者、指定日一覧 よみ でんみょうたくふどうそんはんぎ 指定 市指定文化財 種別 彫刻 数量 1面 所有者 宝城坊 指定日 昭和53年10月31日 写真は、伝妙沢不動尊の拓本です。 詳細情報 伝妙沢不動尊版木の大きさと材質 大きさ 縦118センチメートル 横38.5センチメートル 材質 サクラ 解説 日向・宝城坊所蔵。縦118センチメートル、横38.5センチメートルの桜の板に不動明王の立像が彫られています。年代は鎌倉時代末から南北朝期(14世紀)に活動した妙沢作の絵をもとに彫られたのであろうとのことで、同時期のものといわれています。市内の社寺に残る版木の中では最古・最大といえるようです。 妙沢(みょうたく)は、龍湫周沢(りゅうしゅうしゅうたく)といい、妙沢は諱(いみな)です。鎌倉時代の延慶(えんぎょう)元(1308)年の生まれで、南北朝の嘉慶(かけい)2(1388)年に没しています。甲斐(山梨県)の武田氏の子として生まれました。 臨済宗の僧・夢窓疎石(むそうそせき)の弟子として京都・建仁寺や天竜寺、甲斐の恵林寺などの住持を務めました。幼い頃から絵が得意で、特に不動尊や鍾馗(しょうき)が得意でした。妙沢が描いた不動尊の絵から炎が出たという話まであります。 戦後宝城坊の資料を研究された方により筆法、衣紋の線、目の形、構図などから妙沢の作とされました。背に火炎、弁髪(べんぱつ)を左肩から前に垂らし、右手に利剣左手に羂索(けんじゃく・縄)を持ち、磐座(いわくら)の上に立つ力強い憤怒(ふんぬ)相の像です。 この版木についての伝承などはないようですが、妙沢作であろうということや日向薬師との関係などから、足利尊氏の子であり、初代の鎌倉(関東)公方(くぼう)であった基氏〔もとうじ・暦応3(1340)~貞治6(1367)〕あたりの寄進によるものではないかと推測されています。 版木は、一般公開していません。 お問い合わせ 文化財係住所:伊勢原市田中348番地TEL:0463-74-5109FAX:0463-95-7615
解説
日向・宝城坊所蔵。縦118センチメートル、横38.5センチメートルの桜の板に不動明王の立像が彫られています。年代は鎌倉時代末から南北朝期(14世紀)に活動した妙沢作の絵をもとに彫られたのであろうとのことで、同時期のものといわれています。市内の社寺に残る版木の中では最古・最大といえるようです。
妙沢(みょうたく)は、龍湫周沢(りゅうしゅうしゅうたく)といい、妙沢は諱(いみな)です。鎌倉時代の延慶(えんぎょう)元(1308)年の生まれで、南北朝の嘉慶(かけい)2(1388)年に没しています。甲斐(山梨県)の武田氏の子として生まれました。
臨済宗の僧・夢窓疎石(むそうそせき)の弟子として京都・建仁寺や天竜寺、甲斐の恵林寺などの住持を務めました。幼い頃から絵が得意で、特に不動尊や鍾馗(しょうき)が得意でした。妙沢が描いた不動尊の絵から炎が出たという話まであります。
戦後宝城坊の資料を研究された方により筆法、衣紋の線、目の形、構図などから妙沢の作とされました。背に火炎、弁髪(べんぱつ)を左肩から前に垂らし、右手に利剣左手に羂索(けんじゃく・縄)を持ち、磐座(いわくら)の上に立つ力強い憤怒(ふんぬ)相の像です。
この版木についての伝承などはないようですが、妙沢作であろうということや日向薬師との関係などから、足利尊氏の子であり、初代の鎌倉(関東)公方(くぼう)であった基氏〔もとうじ・暦応3(1340)~貞治6(1367)〕あたりの寄進によるものではないかと推測されています。
版木は、一般公開していません。