上杉館跡

公開日 2013年06月03日

伊勢原の指定文化財

上杉館跡

上杉館跡写真
読み、指定、種別、指定日一覧
よみ うえすぎやかたあと
指定 市指定文化財
種別 史跡
指定日 昭和44年2月27日

案内図

 

解説

文明18年(1486)7月26日、太田道灌は相模糟屋にあった上杉氏の「府第(ふてい)」に招かれ、主君定正により殺されてしまいました。風呂で襲われ「当方滅亡」と叫び、絶命したといいます。史料的には、当時の詩僧・万里集九(ばんりしゅうく)が記した「相陽糟屋の府第」とあるのみで、後に「上杉館」あるいは「糟屋館」と呼ぶようになりました。

鎌倉幕府が倒れると、伊勢原市域を中心に広がっていた糟屋荘と呼ばれる荘園は、倒幕に功があった足利尊氏に与えられました。足利尊氏の母は上杉氏の出身でした。

足利尊氏は京都の幕府とは別に、鎌倉に東国を支配するための「鎌倉府」を置きました。この鎌倉府には関東(鎌倉)公方と呼ばれる足利氏がいて、東国の武士を率いていました。上杉氏はこの関東公方を補佐する関東管領(かんとうかんれい)と呼ばれる地位に就きました。

上杉氏は大きく山内(やまのうち)、犬懸(いぬがけ)、宅間(たくま)、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の四家に分かれていましたが、やがて、犬懸、宅間は没落し、関東管領山内上杉氏と扇谷上杉氏の二家が残りました。

扇谷上杉持朝(もちとも)は、15世紀の半ばに相模守護になり、相模守護の役所=守護所を糟屋に置いたと考えられます。後に扇谷上杉氏は、河越城(埼玉県川越市)を築き、拠点を移しましたが、糟屋の館は残されたようです。

この館がいつ頃まで使われたのかは分かりませんが、永正9年(1512)に岡崎城が北条早雲により落城します。これ以前に扇谷上杉氏は糟屋の地を離れたと思われます。

扇谷上杉氏の館跡の所在は不明とされていましたが、明治以降、上粕屋に残る立原(たてはら)、的場(まとば)、馬防口(ませぐち)といった地名から、現在、産業能率大学がある台地が上杉館とされたようです。

昭和50年から51年にかけて産業能率大学建設に先立ち実施された発掘調査では、館としての明確な遺構は発見されませんでした。調査報告書では、大学のある場所の東側に存在しているのではないかと推定しています。

台地は東西に延び、南・北・東を堀(鈴川・渋田川の旧河道)に囲まれています。東西1600メートル、南北700メートルもある台地ですが、上に述べたように、この台地の中程から東側が館跡と推定されています。周囲の堀の幅は最大100メートルもある広大な館跡です。

なお、『伊勢原市史 通史編 先史・古代・中世』では、「道灌殺害時より、少し時代の下った戦国期には、上粕屋一帯は「秋山郷」と呼ばれており、「糟屋」の地名で呼ばれたのは、下糟屋地域一帯に過ぎなかった」と記述されています。

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教育部 教育総務課文化財係

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