明治時代から大正、昭和 

公開日 2013年06月03日

いせはらの歴史

明治から大正、昭和へ

近代国家の夜明け

江戸の幕藩体制が崩壊し、200年余りにわたる太平の眠りから覚めた日本は、近代国家の成立に向けて、大きな変革を体験しなければなりませんでした。明治初年(1868)に打ち出された神仏分離(しんぶつぶんり)政策により、大山寺をはじめとする市内各地で廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が行われ、寺院、仏像に大きな被害があったようです。

歴史上まれに見る激動の中、国会の開設や憲法の制定を求めて全国的な高まりを見せたのが自由民権運動です。上粕屋の山口家の当主、山口左七郎が主宰した湘南社は、県内における運動の中心として農村の近代化に取り組み、人民の自由と権利の伸長を掲げて目覚ましい活動を行いました。

明治21年(1888)には市制・町村制が公布され、この地域には伊勢原町・大山町・高部屋(たかべや)村・比々多(ひびた)村・成瀬村・大田村・岡崎村が生まれました。人口は1万7千人を数え、学校や郵便局、商工会などの町の施設も次々に整えられていきました。翌年には帝国憲法が発布され、日本はアジア初の立憲国家となり、その2年後、悲願であった国会が開かれます。しかし明治20年代後半から30年代にかけての日本の内政は安定せず、対外的にも日清戦争、日露戦争へと続く不穏な社会情勢が続きました。

一方、文化的には、文学界や美術界に新進気鋭(しんしんきえい)の作家たちが現れ、日本の近代文化の礎(いしずえ)が築かれていきます。市内でも明治34年(1901)には、宝城坊の薬師三尊像が日本美術院を創設した岡倉天心(おかくらてんしん)の監督のもとで修理されていますし、また、前年には東京人類学会会長の坪井正五郎が三ノ宮地区を踏査し、野首(ぬくび)や下谷戸(しもやと)にあった古墳群を発掘調査しています。

関東大震災と太平洋戦争

大正12年(1923)に起こった関東大震災は伊勢原でも多くの死傷者を出しました。しかしその後の復興はめざましく、昭和2年(1927)には小田急電鉄が開通して首都東京と結ばれました。東京を中心として商業設備、交通網、通信網などが整備され、文学、芸能、スポーツなどの分野も円熟していきました。

しかし、世相は次第に軍事色を濃厚にしていき、やがて太平洋戦争が始まります。大山は京浜地方の学童疎開地となり、社寺の梵鐘(ぼんしょう)が軍備のために強制供出されました。伊勢原からも多くの人々が出兵し、この戦争で亡くなった人々は伊勢原地域だけで800名にのぼるといいます。

終戦後は極度の食料難に見舞われ、人々は着の身着のまま、食うや食わずの生活を強いられました。伊勢原では、昭和29年(1954)に岡崎村を除く前記6町村が合併し、新しい伊勢原町が発足し、中学校の建設、農業振興、道路整備などがおこなわれました。当時の人口は2万6千人余り、やっと食糧事情が好転し始めた頃でした。昭和31年(1956)には岡崎村が分村して伊勢原町と平塚市に合併しました。昭和30年代からは、町の方針も時代の推移とともに開発へと移行し、国道246号線や東名高速道路の整備、工場の誘致や八幡台団地などの住宅団地の建設が進められました。

伊勢原市の誕生

昭和40年代には、交通の便利な首都圏にありながら、丹沢・大山山系の雄大な自然と温暖な気候という恵まれた環境を生かした、「都市」としてのまちづくりが進められます。伊勢原駅南口の開設や周辺の土地区画整理事業、伊勢原内陸工業団地の建設、伊勢原駅北口の中央通りの拡幅、あかね台、つきみ野といった大規模な新興住宅地の造成など、伊勢原は急速に近代的な街へと成長していきました。そして、昭和46年3月1日、県下15番目の市として市制を施行することとなります。

その後は好景気を持続する日本経済とともに発展し、首都圏近郊のベッドタウンとして人口の流入が激しくなり、伊勢原市はまちも人も大きく変貌(へんぼう)を遂げていきます。

この時代の急速な経済成長は、人々の生活を大きく変化させていきました。技術革新によって便利な世の中になる反面、昔ながらの産業が消え行く運命をたどります。養蚕業(ようさんぎょう)や鍛冶屋(かじや)、日向の石切り場もそのひとつです。機械化が進んで古い道具がほこりをかぶり、また、地域の祭りや伝統行事も少しずつ姿を変えていきました。これらは伊勢原に限らず、当時の日本全国で起こった出来事ですが、高度成長という名のもとに失ったものも少なくありません。

秀峰「大山」は、私たちのふるさと「いせはら」の移り変わりの様を静かに見守り続けています。

伊勢原駅前の様子

     伊勢原駅前の様子

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