日向薬師の歴史

公開日 2014年05月15日

はじめに

日向薬師・宝城坊は霊山寺(りょうぜんじ)といい、日向十二坊と呼ばれたように多数の坊からなる日向修験の拠点の寺として栄えてきました。明治3年、神仏分離により別当(霊山寺の管理者)であった宝城坊のみが寺として残り、他の坊は帰農したり神官になりました。

日向薬師の歴史は、明治初年の神仏分離及び明治27年の宝城坊庫裡の火災による記録類の焼失などにより、実のところよくわかりません。江戸時代末及び明治期に書かれた資料や、現実に残る文化財の年代や銘文などから考える以外に方法はないようです。

奈良・平安時代

寺の起源は縁起によると、奈良時代、霊亀2(716)年に僧・行基(ぎょうき)により開創されたといいます。これによると約1300年の歴史を持つことになります。

奈良時代の年代をもつと思われる文化財は残念ながら現在のところ見あたらないようです。

平安時代になると、鉈彫りで有名な国重要文化財(以下「重文」と表記します)本尊薬師如来及び両脇侍像は平安時代10世紀頃の作といわれています。また、境内から出土する布目瓦も10世紀頃までさかのぼるようです。一部に瓦が使われた建物があったようです。

境内の東、県指定天然記念物の「二本杉」に接して鐘堂(市指定文化財)があります。釣鐘は国重文ですが、これにある銘文に天暦6(952)年村上天皇が口径二尺一寸の銅鐘を奉納されたとあり、また仁平3(1153)年、鳥羽法皇(とばほうおう)の院宣(いんぜん)により銅鐘を改鋳したともあります。

11世紀の初めには三十六歌仙として有名な相模が、夫の国司赴任に伴い相模国に下った際薬師に参籠し、「さして来し日向の山を頼む身は 目も明らかにみえざらめやは」の歌を残したといいます。

平安時代末12世紀の資料として、別当宝城坊の本尊薬師如来の脇侍であった木造十二神将があります。12体の内、2体は頭部を残し江戸時代の修理が加えられています。現在県重要文化財に指定されています。

鎌倉時代

懸仏図

鎌倉時代になると、源頼朝・北条政子夫妻や三代将軍源実朝夫人といった幕府のトップクラスの信仰を集めました。幕府の事績を記した『吾妻鏡』から頼朝が1回・政子らが2回参詣したことがわかります。また頼朝は自身の歯痛平癒のため、代理を参詣させたりもしています。

国重文の丈六の「薬師如来像」や「阿弥陀如来像」などは平安時代末から鎌倉時代初期に造られたといわれ、頼朝・政子に関連するとの見方もあるようです。国重文の「四天王立像」にも頼朝に関連するエピソードが伝わっています。

本堂裏手にあった七所権現社には江戸末期まで八面の懸仏(かけぼとけ)があり、その一つには弘安元(1278)年の銘を持つものがありました。銘文から藤原定吉と源氏女が奉納したものと思われます。

南北朝・室町時代

鎌倉幕府滅亡後ほどなく、暦応3(1340)年、前に記しました国重文の銅鐘が現在のものに改鋳されました。

京に幕府を開いた足利尊氏は、関東・奥州の支配のため鎌倉に鎌倉府を置き、息子基氏(もとうじ)を鎌倉公方(かまくらくぼう)としました。

県指定重要文化財唐櫃(中に幡あり)の写真

観応元(1350)年、足利尊氏・直義(ただよし)兄弟の対立により、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)といわれる争乱が起きました。鎌倉府内でも尊氏派の高師冬(こうのもろふゆ)と直義派の上杉憲顕が対立しました。上野国(群馬県)で挙兵した上杉憲顕(うえすぎのりあき)を追って相模国湯山(厚木市飯山)に高師冬とともにあった基氏は、上杉派の近臣により師冬のもとから奪われ、日向薬師に至ります。この時地元の武士、善波有胤(ぜんばありたね)が活躍しました。以前から薬師と足利氏の関係はあったと思われますが、この後、基氏は貞治3(1364)年に薬師に幡一流を奉納しました。これが現在まで伝わる県重文「宝城坊の錦幡(きんばん)・唐櫃(からびつ)」です。
また、本尊薬師如来両脇侍像が納められている厨子及び国重文の十二神将も南北朝期のものといわれています。厨子(ずし)について近年新たな調査が進められており、その結果が待たれています。
康暦2(1380)年、後円融天皇は日向山霊山寺の修理について、綸旨により三河(愛知県東部)・遠江(静岡県西部)二国の棟別銭を当てることを許されました。棟別銭とは寺社の修造費用にあてる臨時の税です。綸旨を得てそれを室町幕府に提出して、賦課徴収をお願いしました。二国の棟ごとに10文を賦課して修理を行いました。修理の対象に薬師堂(本堂)が入っていたと考えられます。
戦国期に関東に覇をとなえた小田原北条氏の頃になると、日向薬師によった山伏達が戦に従事するようになり、永禄12(1569)年には、甲斐国(山梨県)の武田信玄の軍勢と戦い、討ち死にするといったことがありました。
天正18(1590)年、豊臣秀吉により小田原北条氏が滅亡すると、関東は徳川家康に与えられ、時代が大きく変化を始めました。

江戸~明治時代

仁王像写真

天正19(1591)年、家康から小田原北条氏の頃と同様の寺領60石の朱印状を受けました。霊山寺は日向地区領主の一員でもあったのです。

江戸時代になっても日向薬師では大山と違い、以前と同様修験道の拠点としてのあったと思われます。資料調査が進んでいないこともあり、詳細は不明です。堂宇の修理については次項で触れたいと思いますが、天保4(1833)年、山下の坊から発生した火災により、仁王門を焼失しました。焼失以前の仁王門は楼門(ろうもん)造りであったといいますが、規模を小さくして同年中に再建されました。

徳川幕府が倒れると、神仏分離の波が押し寄せました。しかし、貴重な文化財はいくつかは消滅したものの、奇跡的ともいえる状況で今日まで伝わっています。

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