3.比々多地区:絶景!塔の山緑地公園から市街を望む 【LC】

公開日 2015年02月27日

最終更新日 2015年03月03日

県立いせはら塔の山緑地公園

距離は比較的、短いですが、上り坂が多く、急坂のため、ゆっくり時間をかけて歩きましょう。コース上で、標高が一番高くなる最終処分場の周辺から見える景色は、とてもきれいで疲れた体を癒してくれます。このコース以外にも県立いせはら塔の山緑地公園の散策コースや聖峰山頂への登山コースもあります。ぜひ、お試しください。

コース難易度:中級コース(ゆるやかな高低差のあるコース。4~7キロメートル程度。約1時間30分。)

距離:4.8キロメートル  時間:80分  消費カロリー:約240キロカロリー  歩数:8,000歩

1.県立いせはら塔の山緑地公園【トイレ】 ⇒ 2.三之宮比々多神社(1.0キロメートル 20分) → 3.法泉寺(2.0キロメートル 30分) → 4.最終処分場(3.0キロメートル 60分) ⇒ 1.県立いせはら塔の山緑地公園【トイレ】

 

コースマップ

コースマップNo.3

 

コース案内

県立いせはら塔の山緑地公園

県立いせはら塔の山緑地公園

県立いせはら塔の山緑地公園は、丹沢の麓、標高約203メートルの塔の山一帯の島状に残された緑地の一部を保全、整備する公園です。公園では、タチツボスミレ、ホタルブクロを始め、エビネやキンランなど、四季の草花を観ることができます。また、山頂からは大山、展望広場からは伊勢原のまちなみなどの眺望を楽しむことができます。

三之宮比々多神社

比々多三ノ宮神社

三之宮比々多神社は延喜式内社相模十三座(えんぎしきないしゃさがみじゅうさんざ)の中の一社で、市内の延喜式内社はこのほかに大山の阿夫利神社、下糟屋の高部屋神社がある。祭神は豊斟野尊(とよくもぬのみこと)で、国土創造の神を祀ったものである。また酒解神(さかときのかみ)を合祀してあるので、酒造りの神としても酒造家の間に崇敬されている。創建の年代ははっきりとせず、社伝によれば紀元前六六〇年とあるが、おそらく周辺に相模の王の墓をはじめとるする古墳が次々と営まれたころから聖地化し、律令期にいたって体系化されたのだろう。周辺にはかつて、野首古墳群(ぬくびこふんぐん)、御領原古墳群(ごりょうはらこふんぐん)、下谷戸古墳群(しもやとこふんぐん)などが群在し、そこから出土したとされる馬具や大刀、土器などの副葬品が、神社に併設されている郷土博物館に展示されている。また、神社の境内からも縄文時代のはじまりのころの土器や石器が出土しており、この地に早くから人が住んでいたことがわかる。源頼朝は、建久3年(一一九二)に、政子の安産を祈願してこの冠大明神に神馬を奉納している。その後、明応のころ(一四九二~一五〇一)から度々戦火に遭い、神社は神領や社人たちを失っていったが、わけても永正年間(一五〇四~一五二一)に、時の宮司が三浦一族を助けて小田原北条勢に抗したため、三浦一族滅亡後は社運衰微の憂目を見た。そして、天正(一五七三~一五九二)の初めに、社地を埒免(恵泉女学園付近)から現在の場所に移し、小さな社を建てたという。徳川氏が関東を領するようになってから、社領10石の朱印地を与えられ、ようやく社殿の造営もできるようになった。旧時の壮大な規模には及ぶべくもなかったが、以後代々の将軍より社領の寄進を受けることとなった。明治期には、秦野市が生んだ歌人、前田夕暮が当社の宮司永井健之輔氏に師事して国学を学んだことがある。 現在の比々多神社は大きな杉木立に守られるように鳥居が立ち、その奥に銅板葺(どうばんぶき)の屋根をもった本殿が静かに佇む。4月22日に行われる例祭は近在きっての祭典行事で、きらびやかな神輿を担ぎ、三つの山車を出して地域を練り歩く。また、同時に開催される植木市も盛況である。

法泉寺

耕雲寺

「長光山 法泉寺」は、当時日朝上人の師匠一乗院日出上人に師事して鎌倉本覚寺と三嶋本覚寺を行き来していたと考えられている。身延の法主になられる10年前(西暦1453年頃)に、僅か31歳で法泉寺を建立され当山開基上人として伝えられている。日朝上人は、宗門興隆に心血を注いだが、61歳の時、遂に無理が祟り、両眼を失明してしまった。しかし、その厚い信仰の力でこれを克服し、「眼病消滅本尊」を書き、後世、法華経を信仰する人が眼病で苦しんでいたら、守護して平癒させると言う願を立てた。以来、「目の神様」、「学業の神様」として多くの人々より親しまれ、今日に至っている。

保国寺

毘沙門池公園

三之宮比々多神社よりさらに西へ進むと、山ふところに抱かれた集落が栗原で、この中心に久昌山保国寺(くしょうさんほうこくじ)がある。本堂は平成12年に改築、落慶されている。江戸時代の中ごろ、この寺の住持に孝戒という坊さんがいた。慈悲深く、特に子ども好きな坊さんであったらしい。貧しい農村の幼な児たちの生命は、当時はいつも死の危険にさらされていた。孝戒和尚は、数多く失われる幼児の死を悼み、その健全な成長を願って丈六の地蔵尊大像と百体の子育て地蔵尊造立の大願を立てた。宝暦12年(一七六二)のことであった。百体もの地蔵尊を造ろうとしたのは、一人でも多くの子どもたちに十分に仏さまの目が届くようにするためである。発願以来13年の歳月を経て、安永4年(一七七五)7月1日にこの大業は達成された。丈六の地蔵尊大像は保国寺の地蔵堂に安置され、小像百体の子育て地蔵尊は近郷百か村に勧請(かんじょう)されて、それぞれの集落を戸ごとに一夜の供養を受けながら巡った。今でも「一夜地蔵」または「まわり地蔵」として白根や馬渡などの集落を巡っている地蔵尊がそれである。保国寺の地蔵尊大像は明治10年(一八七七)ごろ、廃仏の厄に遭い失われてしまった。寺の地蔵堂に現在安置してある木像は、唐銅造りの大像を鋳造した際の原型となったもので、仏師は江戸の大熊宮内である。孝戒和尚は善波の勝興寺の石造地蔵菩薩も造立し、坪ノ内の養国院の多宝塔造立にも力を尽くした。また村の辻々にも地蔵像を造立するなど、地蔵尊の信仰を通じて庶民とともに生きた有徳の僧であった。

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