善波歴史浪漫 その4「勝興寺と江戸南町奉行(渡辺綱貞)」

公開日 2016年05月26日

最終更新日 2016年05月26日

勝興寺と江戸南町奉行(渡辺綱貞)

勝興寺の本堂の左側に大きな舟形供養塔と燈籠が二基づつ建っています。燈籠には渡辺綱廣勤建と刻まれています。
 渡辺綱廣とは、徳川四代将軍家綱公代、寛文元年(1661)から延宝十年(1673)の間江戸南町奉行を勤めた渡辺綱貞公ではないかと言われています。
 供養塔は万治三年(1660)と寛文七年(1667)に謹建されたものがあります。
 南町奉行に抜擢され、大隅守に叙任された寛文元年は、善波勝興寺に一基目の供養塔を謹建された翌年になります。
 供養塔には二基とも院殿大姉の法号が刻まれています。
 綱貞公との関係は母(杉浦右衛門七盛嗣が女子)、室(三枝彦兵衛守吉が女子)と言う説もありますが、確かなことは不明です。
 供養塔には院殿の贈り名が刻まれていることから、勝興寺になんらかの助力があったのではないかと考えられています。

 綱貞公は旗本で三河以来譜代の家柄で、駿河の国府中に生まれ、寛永四年(1628)十六歳で三代将軍家光公の小姓組(将軍の警護をする役)に属し、このと
き五百石の旗本でした。
 寛永十年(1633)二月七日三代将軍家光公の代、二十二歳の若さで善波村を知行地としました。
 その後、組頭・新番の頭と進み、新番の頭であった明暦三年(1657)一月二十七日江戸火災で有名な明暦の大火(振袖火事)があり、将軍より命令を受け、「御城下および屋敷地をわかちこれを図に奉る。」と県史に書かれています。
 新番の頭の後、南町奉行、大目付と出世し二千七百石持となりました。江戸南町奉行の名は大岡越前守、(八代将軍吉宗公代)・遠山左衛門尉(十二代将軍家慶公代)などが有名ですが、綱貞公は(四代将軍家綱公代)の奉行で、両者の大先輩にあたります。

善波に対する貢献も大きく、三嶽山にあった三嶋社が風が強く破壊し、現在の大松山に寛文七年再建できたのも渡辺綱貞公の寄進によるものです。
 西玉にある代官屋敷は綱貞公の代官が居住するため建築したのが始まりとされております。

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