公開日 2016年12月08日
更新日 2022年03月23日
ご存じでしたか?我がまちに、今から110年前、赤ひげ先生がいたことを
板戸829番地(以前「太郎稲荷社」があったところ)に石碑があることをご存じでしょうか。
石碑は建立されてから70年近くを経過しており、かつ、碑文(※1)は難解な部分もありました。そこで、市文化財課の協力も得て、おおよそが判明しました。ただただ驚きでした。我がまちにこんな凄い人がいたんだとは。
分かったことは、今から116年前、板戸815番地付近に眼科医院を開業した江口次郎人という医師がいたこと。次郎人は熱心なクリスチャンで、その行動は極めて真摯な本然的キリスト者にふさわしい博愛精神に満ちたものであったこと。
当時、地区周辺は貧窮者が多かったが、次郎人は彼らに対して、無料で施療したという。まさしく、作家・山本周五郎の「赤ひげ診療譚(※2)」の赤ひげ先生そのものであったこと。また、日露戦争後の深刻な不況や明治41年3月の大火災による集落全戸焼失という状況におかれ、貧困が加速していったことから、次郎人は貧窮者を組織して、「伊勢原自彊(強)組合」を結成、みずからの力によって貧窮を克服し、みずからの社会的地位を克ち取っていこうとするための組織であったこと。この組合は、解散する昭和27年(1952)2月までの43年間続いたこと。
この石碑にある碑文は、次郎人の医師としての功績に加え、社会・福祉事業家としての側面を写しだしており、組合がその遺徳を顕彰し建立したものであること。
このことは、「神奈川県史」「伊勢原市史」「伊勢原市域医療史概観」に載っています。興味のある人は、ぜひ現地でご覧ください。
※1 頌徳碑 碑文
※2 山本周五郎 小説「赤ひげ診療譚」
- 江戸時代後期、享保の改革で徳川幕府が設立した「小石川養生所」を舞台に、文政年間の頃に、そこに集まった貧しく病む者とそこで懸命に治療する医師との交流を描いている。決して社会に対する怒りを忘れない老医師の「赤ひげ」と、長崎帰りの蘭学医である若い医師との師弟の物語を通して、成長していく若い医師と貧しい暮らしの中で生きる人々の温かい人間愛を謳いあげている。
- 昭和40年(1965) 東宝で映画化
監督 黒沢 明
キャスト 三船敏郎、加山雄三、香川京子など
江口次郎人 年表
年月日 | できごと |
---|---|
文久元年(1861)5月25日 | 出羽鶴岡藩士 赤沢隼之助の次男として生まれる |
明治20年(1887)10月 | 山形県立医学校卒業 |
明治21年(1888)5月 | 東京で医術開業試験に合格 |
明治21年(1888)10月 | 伊勢原町の漢方医 江口武寿の娘リツ子と結婚し、江口家を嗣ぎ江口次郎人となる |
セル | 東大医学部第一医院眼科に入る(約10年間) |
明治33年(1900)4月29日 | 江山堂 眼科医院開業(伊勢原では2番目の洋医、1番目は白木啓 明治24年) |
明治37年(1904) | 日露戦争 |
明治41年(1908)3月 | 大火災発生 集落全戸焼失 |
明治42年(1909)1月5日 | 自彊組合設立総会(代表 江口次郎人) |
大正3年(1914) | 第一次世界大戦 |
大正11年(1922)7月 | 自彊組合内務大臣表彰(金100円の奨励金) |
大正14年(1925)5月9日 | 江口次郎人死去(享年65才) |
昭和16年(1941)12月8日 | 太平洋戦争 |
昭和27年(1952)9月9日 | 自彊組合解散 頌徳碑を建立 |
特記事項
- 山形県生まれの次郎人がどのようにして伊勢原町の江口家と知り合ったか?
→判然としないが、養父となる江口武寿が自由民権運動をしており、次郎人もこの運動に関わっていたのではないか。 - 江口家の養嗣子となってから以降、10余年間も市域で開業しなかったのは?
→当時は漢方医が主流。開業に当たって反対や妨害には遭わなかったようである。これは養父が漢方医だったことと、10余年間は一種の猶予期間だったのではないか。 - 眼科なのは?
→貧困にあえぐ人達の間に目の病が多いことに心を痛めていた。 - 医院名の「江山堂」は?
→医院の開業、経営を行うに当たっては、自由民権運動で養父と人脈のあった高部屋村の山口左七郎より資金援助があった。このことから江口の「江」と山口の「山」を組み合わせ命名したもの。 - 患者はどこから?また何人くらい?
→伊勢原全域、須加村(平塚)、金目村(平塚)、毛利村(厚木)、玉川村(厚木)、相川村(厚木)、小鮎村(厚木)、宮ヶ瀬村(清川)、吾妻村(二宮)、寒川村(寒川)、東秦野村(秦野)、渋谷村(大和)といった広範囲から治療を受けに来ていた。処方箋の通し番号を確認すると1000番を超えており、眼科医としての技術は優れていたようである。 - 江口家のその後は?
→次郎人が死去した後、妻と子は函館へ移住した。 - その他
→伊勢原3丁目のキリスト教会(昭和5年設立)の設立にも尽力したのではないか。