戦争体験インタビュー(亀井フジヱさん)

公開日 2020年08月15日

更新日 2020年08月15日

亀井フジヱさんは昭和8年に生まれ、大田村で育ちました。平塚が近かったため、空襲の実体験や軍隊の駐留、勤労奉仕等についてお話しいただきました。

【戦争中の生活について】
 戦争が一番激しくなったのは、私が小学校6年生の時だったと思います。8月15日(終戦の日)が6年生だったと覚えてますけど、その頃は本当に食べ物もなく、学校に行くにも運動靴が無くて夏でもみんな裸足で行ってました。当時は勉強らしい勉強をしなかったです。

とにかく、戦争が激しくて夜は空襲警報が鳴れば蓮華寺(※1)の下に防空壕を掘ってそこへ避難してました。
 お寺には、当時集団疎開で川崎から来てた生徒が本堂で寝泊まりや廊下で勉強したりしてました。20人以上はいたと思います。お寺でもそれだけの人数をお風呂に入れられないので、近くの家に生徒が2人ずつお風呂に入りに来るんです。そういった生活が続いていました。

【空襲について】
 麦刈りの最中に空襲警報が鳴ったことがあったんです。6月20日くらいだったのかな。麦を取り入れるときに車が通れないからと言って、戦車をどけてもらいたいと頼んで西沼目の方に3台ほど移動してもらったんですよ。そのとき、戦車を動かしているのを飛行機に見られたみたいなんですね。小型飛行機が低空飛行で接近して、私の実家を攻撃したんです。布団をかぶって隠れていると、私から1mくらいのところを弾が通っていったんです。私の家の北側には家も何も無く、それで標的にされてしまったんでしょうね。家に弾が入ってきて仏壇の位牌が倒れたり、お茶碗に弾が当たったり、食器棚を貫通して土間の壁に当たって、弾がぬか床に落ちていたの憶えています。
 空襲の時の記憶はよく残っています。ただただ怖かったです。

【終戦の時について】
 横浜でガソリンスタンドを叔父がやっていて兵隊との付き合いがあったみたいなんです。その兵隊さんが「戦争はあと2、3日で終わるから」と(言っていたのを)子ども心に聞いたのを憶えています。
 よかったのは、終戦したら夜中に起きなくてすむようになったこと。空襲警報だと起きて防空壕に逃げなくちゃいけないけれど、これからは毎日朝まで安心して寝ていられる(と思いました)。
 あとは戦争が終わっても食料はすぐには良くならなかったです。当分の間は食べ物がなくて、しょっちゅうお腹が空いている状態でした。戦争が終わって配給でお砂糖が少しくるようになったんですね。ただその時は、配給だからそんなに自由に使えず1kg 程の砂糖を親がすごく大事に使っていたのを覚えています。

※1 蓮華寺:伊勢原市沼目に現存する寺院。

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