戦争体験インタビュー(鈴木日出夫さん)

公開日 2020年08月20日

更新日 2020年08月20日

鈴木日出夫さんは横浜に生まれ、昭和19年に横濱商業を卒業。その後、石川島航空工業で零戦の発動機製造に携わり、戦後は英語力を買われ駐留米軍に勤務しました。

【戦前の日米関係について】
 横浜で生まれ育った身からすればアメリカが敵になるとは思わなかった。7月4日にアメリカの独立祭というのがありまして、横浜で当時花火といえばアメリカの独立祭の花火が主だったんです。横浜港を利用してたくさん花火を上げて日本とアメリカの国旗が掲げてあって、私は花火大会というと今や全国でありますが、横浜のそのアメリカの独立祭の花火しか頭にないんだよね。

【当時の食生活について】
 原爆が落ちて、その翌々日かな、食べ物がないからね、おかずがあるとのことで磯子の方にアサリを採りに行った覚えがある。アサリ採りながらね、「(今ここに)爆弾が落ちてきたら定めだなぁ」って思いました。
 終戦して2、3日経って横浜の年寄りが疎開した所があるのですが、そこに行っていた時に外からガタガタと人の足音がずいぶんするんですよ。何だろうと思ったら、「これから暁部隊(沿岸を守るため設立された陸軍の部隊)の壕へ行くんだ」って。部隊は横浜の海のそばに配置されていたんです。壕の中にはいろいろな物資が置いてありまして、それで「今からそこに行くんだ」ってみんな走って行った。それで、電気のない所で扉をこじ開けて「我々が苦しいときでも良い思いをして色々な物を貰っている。だからかっぱらっていこう。誰も文句を言う者はいない」ということで、そこの物資をかっぱらいにみんなで入った。どういった志の人だって本当にもう惨めな気持ちでやってました。

【終戦の日の記憶】
 横浜海兵団ってのかな、終戦直前にできた海兵団の部隊があるのよ。そこで兵隊がババッと出てきて白い軍装して、小銃を持って、水筒持って「これから東京に行く」って3、4台のトラックに乗ってバアーて(走って)行ったよ。あくまで終戦反対の人たちだったんだろうね。それで、空には零戦やC10とかが盛んに飛んでいるんだよ。厚木航空隊は絶対降伏しないってビラを撒いていた。

【若い人たちへメッセージ】
 どこの国で生まれようが人間は人間。だからやっぱり人の命を大切にしてほしい。命だけじゃなくて、生き方というか、人の心を傷づけないことが大切だと思うよね。

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