公開日 2020年08月15日
更新日 2020年08月15日
山岸 正江さんは昭和11年に大山で生まれました。終戦時は小学4年生。川崎から疎開していた児童が空襲で亡くなったことや戦後、学校で行われた教科書の墨塗り等についてお話しいただきました。
【戦時中の生活について】
小学3年生の時に母が病気になり、あまり身体を動かせなかったので、私が料理を作るようになりました。その都度、母の枕元に行き、料理のやり方を聞いてました。当時1歳の弟がいたのですが、母の体調が優れず、母乳をあげられなかったため、外でかつおぶしをふりかけたお弁当や、たまに炒り卵などを食べさせてましたね。甘いものといえば、サッカリンやズロチンなどで肝臓に悪い甘味でした。農協の婦人部がよく売っていましたね。
農家の人は一日中働いていました。かわいそうだったのは農家のお嫁さんですよ。妊娠していて大きなお腹していても荷物を背負って農作業をしなくてはならない。それで帰ってくると水汲みですよ。とにかくみんな朝から晩まで働いていましたね。
【一番心に残ることは】
一番心に残っているのは、川崎から来た学童疎開の子どもが一人爆弾で亡くなったことですね。疎開の人というと、もう焼け出されて何も無くなった人が大山へ来た訳です。田舎でしたので働けず、生活もままならないので顔色が悪く、着ている物も薄汚れていましたね。そういった子たちに、ときどきですが話しかけに行ったりしてました。
【終戦の日の記憶】
終戦を迎えた日はすごく暑い日で太陽がギラギラしていました。それで今日(玉音)放送があるからと聞いて・・・。家にラジオがありませんから、近所の家に行って周りの人もみんなその家に集まって聞いていたんですね。
そしたら夕方になって近所の人が「日本負けたんだとよ」って言ってきたんですね。それで負けたんだと知りました。以前、母に「戦争やめたって言って相手を油断させて攻撃すれば」と言ったことがありまして、すると「そんなことできるか、やめたって言えばアメリカの人が来て殺されるんだよ!」と言われたんですね。それで敗戦と知ったときは敵国が攻めてくるのではと思い、少しでも身を守るために急いで父の浴衣を着ました。
終戦で変わったことは、道を歩いていても飛行機が飛んでこないので安心して暮らせるようになったことです。戦時中は学校の行き帰りも民家の軒先に隠れながら気を付けて帰ってました。あとは、夕方に灯りが点いていたことですね。空襲があった時は、電灯に黒い布を覆っていましたがそういうのも取り除いたし、夕方になっても暗いところでご飯を食べずに済んだ。その前は縁側に出て月明かりでご飯を食べてました。