14.伊勢原南地区:岡崎城跡と岡崎の旧道をゆく 【LC】

公開日 2015年02月27日

最終更新日 2015年03月03日

八幡神社

悲しい伝説が残されている乙女地蔵、岡崎城の本丸跡と目されている無量寺、国の指定史跡である八幡台石器時代住居跡、そして、老松に囲まれた東大竹の鎮守である八幡神社など見所満載のコースです。

コース難易度:中級コース(ゆるやかな高低差のあるコース。4~7キロメートル程度。約1時間30分。)

距離:6.5キロメートル  時間:100分  消費カロリー:約300キロカロリー 歩数:10,000歩

1.伊勢原南公民館【AED・トイレ】 ⇒ 2.乙女地蔵(1.5キロメートル 20分) → 3.無量寺(2.0キロメートル 30分) → 4.菅原神社(2.5キロメートル 40分) → 5.竹園小学校(4.0キロメートル 60分) → 6.八幡台石器時代住居跡(5.0キロメートル 80分) → 7.八幡神社(5.5キロメートル 85分) ⇒ 1.伊勢原南公民館【AED・トイレ】

 

コースマップ

コースマップNo.14

 

コース案内

乙女地蔵

乙女地蔵

平塚市との境に近い大句バス停の近くに、五反田と呼ばれる田があった。五反田とはその面積が5反(約50アール)あるところから名づけられたもので、すべてを手作業で行わなくてはならない昔にあっては、このような広い田を扱うのは並大抵のことではなかった。現在は家が建ち並び、広大な田園風景は過去のことになってしまったが、この五反田にまつわる乙女地蔵の伝説が、次のように伝えられている。いつのころか、五反田の地主の家に若いお手伝いさんがいた。器量も気立てもよく、すこぶる働き者で申し分ない娘であった。地主夫婦は娘をかわいがり、その一人息子もいつかこの娘を嫁にしたいと思うようになっていた。だが、今と違って古い封建社会のころの話である。大地主の一人息子とお手伝いの娘では提灯に釣鐘のたとえで、いくら地主のお気に入りの娘でもこればかりは難しい話であった。しかし、息子からもせがまれた地主は、思い余って親族会議にこの話を持ち出したのである。その結果、どうしても息子の嫁にするならとひとつの条件が出された。それは、娘が一日で五反田の田植えができたら嫁にしてもよいというものであった。娘は、嫁になれることを知って喜び、無理難題だからと娘を思い止まらせようする地主に、田植えをしてみると言ったのだった。親戚一同の目の前で娘の田植えがはじまった。娘の手の早さは驚くほどで、しかも稲は整然と植えられていった。だが、いくら無類の働き手でも一日に五反の田植えができるはずがない。案の定、まだ田植えが終わらないうちに早や太陽は沈もうとしていた。娘は一心に祈った。「おてんとさん、もう一度空に戻ってください。」すると不思議なことがおこった。沈みかけていた太陽が再び中天にもどったのである。そして、娘が苗を植え終わると、日はとっぷりと暮れたのであった。だが、畦に這い上がった娘はばったりと倒れ、そのまま息を引きとってしまった。娘の死を悼んだ人々は、娘の顔に似せて石地蔵を造り、この五反田のほとりに立てて娘の供養をしたという。この石地蔵が誰言うともなく乙女地蔵と呼ばれるようになった。かつてはこの田のそばにあったが、現在は五反田のかたわらの道を上ったところにある芳圓寺の入り口に安置されている。芳圓寺境内には、丈六の石の大地蔵が上から見下ろすように鎮座している。享保2年(一七一七)に信州高遠の石工、北原四方之丞らによって刻まれたもので、北原四方之丞(きたはらよものじょう)はこの他にも坪ノ内養国院の多宝塔にその名が見られる。 

無量寺

無量寺

岡崎城は源頼朝の功臣、岡崎義実(おかざきよしざね)が治承年間(一一七七~一一八一)のころに築いたといわれる。城は標高35メートルほどに位置する東西に長い平山城で、馬渡、大句、西海地(平塚市)などにまたがる約1ヘクタールの面積をもち、西方に大手門を構えていたという。現在、城跡には帰命山無量寺があり、その境内には「岡崎城址」という碑が建っているが、ここは岡崎城の本丸跡と目されているところである。この場所は、相模平野を一望できる台地の先端部分にあたり、城の立地としては申し分ない。岡崎義実の築城以来、この岡崎城は代々三浦一族の拠点としてその要害を誇った。明応年間(一四九二~一五〇一)、三浦義同入道道寸(みうらよしあつにゅうどうどうすん)はこの岡崎城に改築を加え、ここを三浦一族の本拠とした。三浦道寸は名だたる名将であったが、永正9年(一五一二)8月13日、小田原城に拠った伊勢新九郎長氏(北条早雲)の猛攻を受けて岡崎城はついに落城し、その後は廃城となったようだ。城跡に建てられた無量寺は馬渡から移されたといわれ、寺紋には三浦氏の定紋が用いられている。

岡崎四郎義実公の墓

岡崎四郎義実の墓

岡崎城本丸跡に建つ無量寺の西方、野趣にあふれた野道を行くと、ひとむらの雑木林があり、その中に五輪塔や宝篋印塔などを組み合わせて3基の墓が作ってある。岡崎義実とその嫡子真田与一の乳母、吾嬬の墓といわれる墓石である。義実は、我が子与一に仕えた忠実な乳母、吾嬬(あずま)を手厚く葬り、自身もまた同じところに葬られたと言い伝えられている。平成12年8月には義実の没後八百年を記念して、木製の供養塔が建てられた。

八幡台石器時代住居跡

八幡台石器時代住居跡

八幡台台地は、北に大山・丹沢の群峯を控え、西に富士・箱根の連山、南に余綾高麗山(よろぎこまやま)の連峯を巡らし、はるかに相模灘の銀波を望見できる景勝の地である。今では八幡台住宅団地を中心に閑静な住宅地となっているが、昭和37年(一九六二)ごろまでは視界をさえぎるものもない一面の畑で、春は麦畑に雲雀(ひばり)の声を聞き、秋はとうもろこしの葉ずれの音が、さわやかな風に運ばれて聞こえたところであった。昭和7年、この台地上から縄文時代の敷石住居跡が発見され、断続的な発掘調査の後、「八幡台石器時代住居跡」として国の指定史跡となった。戦後も幾度となくこのあたりの発掘調査が行われ、広い範囲にわたって縄文時代の遺跡が広がっていることがわかってきた。今もなお、三、四千年前のむらの跡が発見されることがあり、さらにそれを遡る旧石器時代の石器群も見つかっている。一万数千年もの昔から、この地は人々の生活に適した場だったのだ。史跡周辺の山王塚公園は、春には桜やつつじに包まれる憩いの場所となる。

八幡神社

八幡神社

八幡台住居跡の南東隣には、老松に囲まれた東大竹の鎮守、八幡神社がある。かつて鐘楼(しょうろう)には源頼朝が寄進したと言い伝えられる鐘がかけられていた。無銘のため来歴は定かではないが、鐘の形から推して少なくとも慶長年間(一五九六~一六一五)以前のものといわれている。現在目にすることができる鐘は、昭和46年の市制施行を記念して地域の人々が新たに奉納したもので、古鐘は大切に保管されている。

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