4.比々多地区:矢倉沢往還道(大山街道)をゆく! 【LC】

公開日 2015年02月27日

最終更新日 2015年03月03日

三嶋神社

しだれ桜があり、春の盛りはまことに見事である三嶋神社があります。矢倉沢往還道は、雑木林に囲まれ、道端には石仏や馬頭観音がひっそりと佇み、木立の間からは善波川とそれに沿う水田を見ることができます。

コース難易度:中級コース(ゆるやかな高低差のあるコース。4~7キロメートル程度。約1時間30分。)

距離:5.3キロメートル  時間:80分  消費カロリー:約240キロカロリー  歩数:8,000歩

1.比々多公民館【AED・トイレ】 ⇒ 2.三嶋神社(2.0キロメートル 30分) → 3.矢倉沢往還道(3.0キロメートル 45分) → 4.桜坂交差点(5.0キロメートル 75分) ⇒ 1.比々多公民館【AED・トイレ】

 

コースマップ

コースマップNo.4

 

コース案内

三嶋神社

県立いせはら塔の山緑地公園

入口にはしだれ桜があり、春の盛りはまことに見事である。この三嶋神社の前一帯は平安末期の伝説の武将、善波太郎重氏の居館のあったところといわれる。重氏は若いころ、召し使いの千子女(ちこめ)と通じたことから父の怒りにふれて家を追いだされ、山中をさまよい歩くうちに千子女をも亡くして巡礼の旅に出てしまった。重氏の両親は重氏を勘当したことを後悔し、息子捜しの旅に出たが叶わず、途中で帰らぬ人となった。主を失った善波の館には悪臣どもがはびこり、そこへ何も知らずに戻ってきた重氏は、謀られて蒲原(静岡県)へ売られてしまった。その後諸国を転々とした重氏は、熊野にいるときに大山石尊権現の冥福を得て新しい妻を娶り、本国へ帰る途中、信濃国の諏訪明神の保護を得て、瞬く間に石尊権現の社前へと飛来した。そして、そのお告げに従って悪臣たちを討ち、善波の館の主となったと言い伝えられている。このあたりには重氏が館を出て千子女と雨露をしのいだ「虎杖窪(いたどりくぼ)」、弓絃(つるしるべ)を湿したという「絃しめし」、悪臣どもを滅ぼすため伏兵をしのばせた「千人がくれ」などの地名が残っている。この付近一帯の山畑は市内でも早くからみかん栽培の行われたところで、春には小さな白いみかんの花が咲き乱れる。また、三嶋神社境内からの眺めは素晴らしく、伊勢原の街を眼下に、遠く江ノ島方面も一望できる景勝の穴場である。

勝興寺

咳止め地蔵

三嶋神社と谷一つを隔てたところに妙宝山勝興寺がある。本堂は三〇〇年以上も前の創建と伝えられ、いかにも禅寺らしい佇まいを見せている。勝興寺の本尊、薬師如来像は昭和63年(一九八八)の仏像調査によって、14世紀終わりごろの南北朝時代に造られたことがわかった。像高28センチメートルという小像であるが、やや面長の顔は端整で、巧みに波打った衣が流れ落ちる水のように垂れる法衣垂下像である。武士の世の薬師如来像らしく、飾り気のない静寧な趣を醸し出している。激しいほどの力強さを感じないのは、14世紀後半ごろの関東が南北朝の争乱期とはいえ、まだ比較的穏やかであったためかもしれない。美しい姿と南北朝時代の造像という貴重さから、平成12年に市の重要文化財に指定された。

矢倉沢往還道

矢倉沢往還道

善波川の右岸、山裾をとりまくように沿って延びる古道がある。矢倉沢往還と呼ばれるこの道は、本来江戸の赤坂と駿河の吉原を結ぶ幹道であった。古くは日本武尊(やまとたけるのみこと)が、平安時代には『更級日記』の作者藤原孝標(すがわらたかすえ)の女(むすめ)が通り、江戸時代には大山詣りの人々で賑わった道である。そのルートは概ね現在の国道二四六号線に相当し、伊勢原市内でも所々に旧道を見ることができる。その中でも、最も往年の面影を残しているのが、この善波の矢倉沢往還である。雑木林の中を落葉を踏みしめながら行くと、道端には石仏や馬頭観音がひっそりと佇み、木立の間からは善波川とそれに沿う水田を見ることができる。矢倉沢往還・・・東海道の脇往還として江戸と駿河、伊豆を結んだ道。江戸を出発し、三軒茶屋(東京都世田谷区)、二子の渡し(多摩川越え)、溝口(川崎市)、長津田(横浜市)、下鶴間(大和市)、国分(海老名市)を経て相模川を越え、市内では高森、伊勢原、善波を抜け、曽屋(秦野市)、松田惣領(松田町)、関本(南足柄市)、矢倉沢(南足柄市)の関所から足柄峠を越えて駿河国に入り、伊豆国三島神社で終わる。

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