大山能狂言と新作能「道灌」

公開日 2023年04月24日

―我を慕いし国民の 手厚き供養身に受けて―
 凜とした涼しさを感じる10月の大山に、謡の一節が響き渡ります。日本遺産の構成文化財「大山能狂言」で演じられる仕舞「道灌」です。大山詣りが庶民の間で流行している最中、もう一つの文化として大山に暮らす人々の間で長い年月にわたって継承されてきたのが「大山能狂言」です。ここではその歴史や実際の曲について御紹介します。

大山能狂言の歴史

 大山能狂言は、伊勢原に伝わる伝統芸能の一つです。その発祥は今からおよそ300年前、江戸時代の元禄年間と伝えられています。
 徳川幕府の庇護を受けていた大山には多くの神職、僧侶、山伏が暮らしていました。しかし互いに争い事が絶えず、多くの訴訟が行なわれていたといわれています。そうした実情を憂いた幕府は、紀州の観世流能楽師「貴志又七郎」を大山に召喚し、三者に能楽を習わせ年に二度の演能を命じました。すると互いに技術を磨き、共に上演を重ねていく中で、次第に争いは起こらなくなり、いつしか平穏な山になっていたと伝えられています。これが大山能狂言のはじまりです。
 その後も大山の御師(現在の先導師)の間で役割分担をして、演能が続けられました。シテ方、ワキ方等、各御師の旅館で代々役割が継承されていたそうです。大山能狂言に関する最古の文献資料、「御神事能狂言番組」によると、盛んであった頃は年間7~8曲を演じていたようです。
 しかし、関東大震災や戦争の影響を受け、次第に後継者も減少し大山能狂言の存続が危ぶまれるようになりました。

昭和初期の大山能
昭和初期の大山能

 

大山能狂言復活と新作能「道灌」

 そうした中、大山能の復活を望む声が多く寄せられ、大山阿夫利神社第7代目宮司によって大山能楽社保存会が設立され、神社の神事の際に仕舞が奉納されるようになりました。また、観世流宗家観世清和氏、人間国宝大蔵流狂言師山本東次郎氏を始めとする一門の方々の協力を受け、昭和56年(1981)に大山火祭薪能が阿夫利神社の能楽殿で開催されるようになりました。かつては仮設の舞台で行われていましたが、平成12年(2002)に現在の阿夫利神社社務局境内に能楽殿「清岳殿」が建設されました。一般的な能楽殿と異なり、本来であれば板絵に描かれる奥松が、実際に植栽されている松で表されているのが特徴です。毎年10月の初週、篝火で幻想的に演出された能楽殿において、観世宗家による能を鑑賞することができます。
 さらに平成13年(2003)には、伊勢原市市制30周年を記念して、山本東次郎氏による作、観世清和氏により監修・節付けされ、新作能『道灌』が制作されました。これにより、大山能狂言が地域能としてより色濃く継承されることになりました。

阿夫利神社の能楽殿
阿夫利神社の能楽殿

 

室町時代の武将・太田道灌

太田道灌画像
太田道灌画像(大慈寺所蔵)

新作能『道灌』のシテ(主役)である太田道灌は伊勢原にゆかりのある中世の武将です。室町時代、永享4年(1432)に太田道真の嫡男として生まれた道灌は、幼少期を鎌倉五山で学び、無双の学者と呼ばれるほどの英知があったといわれています。その後は扇谷上杉家の家宰となり、父道真や他の重臣とともに江戸城や川越城の築城にその才能を発揮しました。
 また、和歌や連歌を愛した文人としての側面もありました。それを表す逸話として、山吹の花のエピソードがあります。道灌が鷹狩りに赴いた際、途中にわか雨に遭い、蓑を借りるため一軒の家に立ち寄りました。しかし、家から出てきた娘は無言で山吹の小枝を差し出すだけで、蓑を借りることはできませんでした。これは後拾遺和歌集にある「七重八重 花は咲けども山吹の みの一つだに なきぞかなしき」という古歌にちなんだもので、蓑が無く貸すことができないことを遠回しに伝えたものです。和歌の心得が足りないことを恥じた道灌はその後歌を学んだという言い伝えで、能の中にも描かれています。
 太田道灌はその後上杉氏の館で暗殺されたとされています。伊勢原市内には、大慈寺と洞昌院の2箇所で道灌の墓と伝えられている墓所があります。また、毎年10月には伊勢原観光道灌まつりが開催されており、伊勢原市民にとっては馴染みの深い武将となっています。

 

新作能「道灌」のストーリー

 能においては、道灌が前半では左衛門大夫持資として、後半では正体を現し幽霊として登場します。全体として道灌の生涯を語る内容となっており、以下のストーリーで構成されています。

 旧暦7月26日の夜、一人の僧の前に武人が現れ、初めて大山に参詣する左衛門大夫持資(道灌)であると名乗ります。
 道灌は、自分の生涯に雨は吉相で、たびたびの戦で川の水嵩が増して味方したこと、何よりも忘れがたいのは狩りの道すがらにわか雨の中、蓑を借りようと立ち寄った鄙びた家の里女が差し出す一枝の山吹に込められていた古歌“七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき”の謂われを知らなかったことを恥じて、後に和歌の道に精進したこと、将軍義政公との接見、後土御門天皇からの和歌の御所望など、歌人として誉れ高かった絶頂の頃を回想して聞かせます。
 近頃の歌をとの僧の求めに“かかるときこそ命は惜しからめかねてなきと思い知らずば”と詠じた道灌に対し、僧が辞世の歌ではと問いかけると、道灌はそのとおりだと応えながら、舞い降りた白い雉の羽音とともにまだ明けやらぬ闇の中に消えていきます。
 翌日、寺男は、道灌が忘れていった傘を糟屋館に届けに行き、昨夜道灌が参詣した同時刻に朋友曽我兵庫に謀られ、闇討ちされていたことを知り、急ぎ大山に戻ります。
 道灌を偲ぶ僧に、寺男は、道灌の出自から、鎌倉五山筆頭の建長寺にて学問を修め、朱子学の教えを学び、治山治水土木の法に通じ、後、築城の名手として江戸、川越などの諸城を築いたこと、戦で勝利を得ても退却する敵を最後までは追わず、また領民を慈しんだため、敵味方ともに人望の高かった道灌が、山内、扇谷の上杉家の争いの中で、糟屋館の湯殿で謀殺された無念の最期を語って聞かせます。
 僧が、死後の参詣は、道灌が常々大山の気高い姿に魅せられていた心残りのためであろうと懇ろに弔うと、再び道灌が現れ、修羅道の苦しみを尋ねる僧に“白刃に倒れし身なれど、無私の心に修羅はなし”と語ります。争いのないことを祈りながらも、本意でなく兵馬を整えたこと、それでも敵を押さえるために城を築けば、しばらくの間は平安に雪月花に親しみ、書や歌を楽しむこともできたと舞いつつ、“二つなき理知らばもののふの仕ふる道に恨みなからん、恨みなからん”と詠じ、糟屋の里に眠る自分を見守る大山の恵みを祈りながら消えていきます。

能面「中将」
「道灌」でも使用される阿夫利神社の能面「中将」

 能で登場する幽霊や妖怪は、後悔や恨みを残しつつ命を落とし、それを晴らすべく人前に現れることが多いですが、太田道灌は全くそういった感情はなく、誉れ高い武人や歌人としての心を残しながら、さらに今後伊勢原の地に深い恵みがあることを祈るといった人間性の高さ・豊かさを感じることができる内容となっています。

 

後世に継承する

 この大山能狂言を残すべく、近年では様々な取組が行われています。大山ではかつて関東大震災による山津波の被害に遭い、貴重な資料な数多く散逸しました。しかし、当時の地元の方々の努力により、その一部は現在まで大切に保管されています。能狂言面や装束もその一つで、古くは室町時代まで遡る貴重な資料ですが、修理を重ねながら大切に使用されています。
 

親子教室
親子教室でお稽古中の子どもたち

また、近年精力的に行われているのが人材育成事業です。文化庁が支援する伝統文化親子教室事業を活用し、令和元年より大山能狂言親子教室を実施しています。開始当初は5人程の参加者しかいませんでしたが、令和4年には20人弱まで増加し、月2回ほど、観世流能楽師からお稽古を受けています。毎年10月の火祭薪能の舞台で、日頃の稽古の成果をお披露目しています。
いずれはこの教室の参加者が中心となり、地元の人による「道灌」が演能されることを目標としています。微笑ましくも今後を背負う子どもたちの姿を、薪能でぜひ御覧ください。