大山寺縁起絵巻の世界

公開日 2026年03月31日

大山寺縁起の影響

江戸時代に大山信仰が盛んとなり、現在日本遺産として認定されている「大山詣り」という形で庶民の間で普及した背景には、大山寺に関係した様々な縁起の民間への流布が大きく影響したと考えられます。
この大山寺縁起には、真名本(漢字のみによる表記の本)と仮名本(漢字仮名交じりによる表記の本)の二種類が存在します。現時点では、真名本は寛永14(1637)年に記された『大日本仏教全書』を初めとする10点、仮名本は享禄5(1532)年に描かれた平塚市博物館所蔵の大山寺縁起絵巻を初めとする14点が確認されています。

真名本・仮名本ともにそれぞれの内容の表記に若干異なる点はあるものの、大部分において大きな違いは認められません。 原典とされる大山寺縁起がいつ頃作成されたのかは定かではありませんが、神奈川県立金沢文庫所蔵の「長井貞秀書状」によると、武蔵国金沢大山寺本堂の写真称名寺大二代長老明仁剱阿が、徳治2(1307)年と推定される年に大山寺に参詣し、その際に大山寺から縁起一巻を借用して持ち帰り、それを長井貞秀(鎌倉幕府第12代執権である北条貞顕の従兄弟)が借用し、さらにそれを北条貞顕の叔母、つまり自分の母である慈性にもみせたい、との文書が存在します。
そのため、少なくとも13世紀末から14世紀初頭段階には大山寺縁起が成立していたことがわかります。

伊勢原市教育委員会所蔵本より、大山寺縁起のあらすじを御紹介します。

大山寺縁起あらすじ

良弁は相模国の国司、染屋太郎太夫時忠の子で、慶雲2(705)年、鎌倉郡由井郷に生まれた。生まれて間もなく金色の大鷲にさらわれ、奈良東大寺二月堂前の大杉にかけられたのを、折良く通りかかった義淵僧正に発見され、一頭の猿によって木から助け下ろされた。義淵はこの児を金鷲童子と名付け愛育した。童子は才気煥発なる秀才で、出家して良弁と名を改めると仏教の発展に尽くし、やがて朝野の帰依を受ける大善智識となった。
一方、良弁の父母は鷲にさらわれた我が子を捜し求め、幾年も諸国を流浪していた。すっかり老いてしまった二人は苦労の末に、立派に成長した良弁と再会を果たす。
良弁僧正は東大寺の別当にあったが惜しむ人々を説得し、父母を伴ってやっと生まれ故郷の鎌倉に戻ってきた。すると北西にある山の頂から五色の光が発して、房総相の三国を照らしている。その正体を探るために山に登ったところ、現れたのは不動明王であった。良弁僧正はその導きに従って、雨降山大山寺を開いたのである。

大山縁起絵巻(伊勢原市教育委員会本)

現代での大山寺縁起

この大山寺縁起のストーリーをわかりやすく伝えるため、市民団体によって手作りの紙芝居が作成され、図書館や保育施設等で読み聞かせ会が実施されています。
その内容は、未就学児でも楽しんで大山寺の歴史に触れてもらえるよう易しく工夫されています。近世に広まった大山寺の縁起が、令和の時代に新しい形で作り直され、新たな語り手によりさらに次の時代へと継承されていくきっかけとなることに期待しています。

大山寺縁起を題材にした紙芝居「ワシの育て子」