公開日 2012年10月04日
いせはらの歴史
奈良時代
律令の制定
大化の改新後、天皇を中心とした国づくりを目指し、大宝(たいほう)元年(701)に国家の基礎を固める基本として大宝律令(たいほうりつりょう)が制定されました。これは、民衆の在り方を示す「令」とそれに違反した際の罰則規定である「律」を成文化したもので、ここに律令国家の第一歩を踏み出しました。そして和銅(わどう)3年(710)、唐(とう)の都にならって造営された平城京(へいじょうきょう)に遷都(せんと)して、70余年におよぶ奈良時代が幕を開けました。
中央集権国家の確立を目指して諸国には国府(こくふ)が定められ、中央と地方を繋ぐための道路網が整備されました。天平(てんぴょう)13年(741)には、聖武天皇の詔(しょうむてんのうのみことのり)によって各地に国分寺(こくぶんじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)が建設され、仏教による国づくりはますます強化されていきました。
相模国の国分寺は海老名市にその跡が残っています。諸説あった相模国府(さがみこくふ)の推定地も、近年の発掘調査の結果により平塚市四ノ宮(しのみや)周辺との結論が下されました。市内では、東大竹の市場(いちば)遺跡、沼目の天王原(てんのうばら)遺跡、串橋の後原(うしろはら)遺跡、板戸の宮ノ前(みやのまえ)遺跡など、各地でこの時代の集落が見つかっており、多くの人々が暮らしていたことが分かります。集落には従来の竪穴住居とは別に高床式(たかゆかしき)の建物の跡も見られ、この時代から始まった新しい納税制度のために、米や布、特産物などを蓄えておく倉庫が立ち並んでいたと考えられます。
市内各地で出土した帯金具
ベルトにつけて役人の身分を表しました。
帯金具の大きさは、左上のもので幅が3センチ4ミリ、長さが5センチ5ミリです。