公開日 2015年04月13日
大山寺縁起
江戸時代に大山信仰が盛んになった背景には、大山寺縁起の民間への流布が大きく影響したと思われます。この大山寺縁起には、真名本(漢字だけで書かれた本)と仮名本(仮名文字で書かれた書物)が存在します。
川島敏郎氏の御教授によると、現時点では、真名本は寛永14(1637)年に記された『大日本仏教全書』を初めとする10点、仮名本は享禄5(1532)年に描かれた平塚市博物館所蔵の大山寺縁起絵巻を初めとする14点が確認されています 。
仮名本の大山寺縁起絵巻の諸本は16世紀前半から17世紀末期にかけて作成されています。これらは漢字のみで表記される真名本とは異なり、詞書と絵画を織り交ぜながら、「絵巻物」として視覚的に展開していきます。またこれらの諸本は、日頃から深く大山を信仰する篤志家から、大山で仏道修行に励む僧侶や御師等に寄進されていることから、大山に参詣した人々に見せ、大山への理解を一層深めたり、御師自らが檀家廻りの際に持参し、往く先々で縁起絵巻の絵解きを行うことにより、信者の獲得や拡大の手立てとして活用したりしたのではないかと考えられます(註1)。
伊勢原市教育委員会が所蔵する大山寺縁起絵巻については、平成23年3月に鎌倉国宝館学芸員高橋真作氏に依頼して調査を実施しました。その結果、この絵巻は、詞書の文言や表現に相違が見られるものの、現存する仮名本の中で最も古い平塚市博物館所蔵の絵巻を基準に描かれたものであり、上巻と下巻の描写の違いから、上巻を描いたのは清水七之丞、下巻を描いたのはその子、七右衞門の可能性が高いことがわかりました。特に、上巻を描いた清水七之丞の表現方法から、室町時代後期に中央絵所預として活躍した大和絵師・土佐光信の作例に通じる点が指摘されています。そして、本絵巻は、寄進者(大野八郎兵衛とその妻が大山開山町御師實蔵坊(丸山要輔ともいう)に寄進)、書き記した者(序は斉藤一器・詞書は岩崎玄周)、絵筆者(清水七之丞・七右衞門父子)が記載されており、近世絵巻研究上においてもきわめて貴重な資料と評価されています。

この「大山寺縁起絵巻」は市内子易の大津家に伝わったもので、それを平成2年に、持ち主であり、当時の教育長であった大津浩一郎氏が伊勢原市教育委員会へ寄贈されました。教育委員会では、永く保存するため2年の月日を費し修復を行いました。
(註1)川島敏郎 2012 『定本 大山寺縁起絵巻上下』
内閣府認証特定非営利活動法人旅めぐり証明発行基金会
大山縁起絵巻のあらすじ
大山寺縁起絵巻は、相模の国司太郎太夫時忠夫妻が子どもの授かりを如意輪観音像に願う場面から始まり、良弁の誕生、そして鷲にさらわれ奈良の都の僧侶「覚明上人」に育てられる場面、後に立派な僧侶となり東大寺を建立し別当となる場面、また、鷲に子をさらわれてしまった父母が子の行方を捜す旅の場面、そして大仏殿の南大門で再会を果たし、親子で相模の国へ戻り、良弁が大山寺を建立し、その大山寺が繁栄する場面までが描かれています。
〈参考文献〉
平塚市博物館 1987『大山の信仰と歴史』
川島敏郎 2011「大山寺縁起絵巻」の世界
『再発見大山道調査報告書 伊勢原市内の大山道と道標』伊勢原市教育委員会
川島敏郎 2012『定本 大山寺縁起絵巻上下』
内閣府認証特定非営利活動法人 旅めぐり証明発行基金会
厚木市郷土資料館 2012『第15回特別展示 あつぎ 縁起書の世界-神さま仏さまの
プロフィール-』