Story 02信仰と行楽を兼ね備えた大山詣り

豊国Ⅲ・大當大願成就有が瀧壷

 

(1)庶民の遠出を叶えた大山講(おおやまこう)

 大山は、関東一円どこからもその神秘的な容姿を望むことができ、江戸方面からは富士山とともに眺めることができる。 当時、富士詣りも人気があったが、富士へ行くには少なくとも7日を要し、箱根の関所を通る手形が必要な大旅行であった。 一方、大山詣りは、関所も通らず、帰りがけに江ノ島や金沢八景を経由しても3日か4日程度といった観光を兼ねた小旅行であった。
 しかしながら、いかに江戸から近い大山詣りとはいえ、1人での参拝となると費用の工面は困難であった。そうしたことから、同じ職種の職人同士や今でいう町内会を単位とする大山詣りを目的とした講(こう)を組織し、費用をみんなで積立て順番制で大山に向かうといった仕組みを作り上げた。御師たちの熱心な布教もあり、関東一円をはじめ静岡、山梨、長野、新潟、福島に広がり、最盛期には100万戸を超える檀家がいた。
 こうして、江戸から距離的に近い利便性と大山の歴史的由緒を生かし、霊験あらたかでありながらも、厳しい修行や戒律を伴わない、気軽な信仰と行楽を兼ね備えたものとして大山詣りはできあがっていった。

(2)納め太刀を担ぎ「いざ!大山へ」

 関東一円から大山へと続く道は「大山道(おおやまみち)」と呼ばれ、江戸を出立した参拝者たちは相模湾を左手にして、はるか向こうの富士山が背後に見える大山を目ざし、要所にたてられた石造りの道標(どうひょう)をたどりながら楽しげに歩を進めた。大山講の一行、いわゆる講中(こうじゅう)が江戸から肩に担いで運んだ巨大な木太刀は、源頼朝が武運長久(ぶうんちょうきゅう)を祈願して自分の刀を大山寺に奉納したとされることに由来し、参拝に際して奉納する納め太刀である。庶民による参拝では他に例をみない、唯一大山詣りで行われたものである。
 幅広い人々に親しまれた大山であったが、日頃高い所での仕事が多く、遠くに見える大山に特別な感情を抱いていた鳶や大工、火消しといった職人たちでつくる講も多くあった。こうした職人たちは水や石への縁起を担ぎ、「雨降山(あめふりやま)」の名や山頂の「石尊大権現」にあやかって御利益を求め参拝に訪れ、粋にこだわりを持つ講中同士が競い合ううちに納め太刀も徐々に大きくなり、7メートルに及ぶものも奉納されている。また、参拝者の中には、ばくちに負けて借金取りから逃げるように大山詣りをした者もいた。納め太刀には、五穀豊穣、商売繁盛などの願いとともに庶民の武運長久とも言える勝負運を上げる意味も込められていた。

(3)歌舞伎や浮世絵の題材となった大山詣り

 参拝者たちは中腹にある滝に打たれ身を清める滝垢離(たきごり)をしてから登拝する。粋な職人たちにとっての滝垢離は、互いに彫りものを披露し合う大山詣りならではの舞台でもあった。こうした姿をはじめとして大山詣りに多くの人々が関心を寄せていたことから、歌舞伎や浄瑠璃、落語、川柳などに取り上げられ、また、参拝者たちが大山に向かう道中の様子や、歌舞伎役者がふんする彫りもの姿で大きな納め太刀を手にして滝に打たれる姿などを描いた浮世絵が売り出されたこともあり、更に多くの人々の興味や関心を呼び起こし、江戸の人口が100万人であった頃、年間20万人もの参拝者が大山を訪れている。

(4)参拝客をもてなす宿坊と麓の繁栄

 参拝の講中を歓待する宿坊は、講の所在地とその名称が刻まれた玉垣(たまがき)に囲まれ、玄関先に並ぶ登拝記念の石碑や奉納された手水鉢(ちょうずばち)、講の名を刻み込んだ板まねきや布に染め抜いた布まねきが御師とのつながりの強さを表し、帰宅した家族さながら講中を出迎える。
 御師たちは、参拝客の宿泊から登拝の道案内まで一切の世話をし、宿坊に備える阿夫利神社の分霊を祀る神殿で、登拝する講中の無事を祈願した。
 大山の名物となっている豆腐料理は、各地の講から奉納された大豆を利用し地元の清水でつくったのが始まりで、宿坊ごとにそれぞれの講から預かる専用の器を用いて振る舞われた。また、地域の木地師(きじし)により作られた大山こまは、金回りが良くなるという縁起物で、参拝客が帰宅の際に買い求め、誰からも喜ばれることから、御師も檀家廻りの際に土産代わりに持参していた。
 大山の麓も大山詣りの恩恵にあずかり、往来する参拝者を相手とする商いはもとより、宿坊で必要となる布団や履物から日用品、酒や食料品などの取引で繁盛した。