浄業寺跡

公開日 2013年06月03日

伊勢原の指定文化財

浄業寺跡

じょうごうじあとの写真
読み、指定、種別、指定日一覧
よみ じょうごうじあと
指定 市指定文化財
種別 史跡
指定日 昭和44年2月27日

案内図

 

 

解説

三ノ宮字竹ノ内にあります。うっそうと茂る竹林の中、雲首(うんしゅ)と呼ばれる一見脳髄(のうずい)のような形に彫刻された石をのせる大きな六角形の墓石が並んでいます。江戸時代、黄檗宗(おうばくしゅう)であった当寺の歴代住職などの墓石です。また中世の五輪塔が多数散在する中に、千首地蔵と呼ばれる石仏が立っています。五輪塔の丸い火輪(かりん)が首のように見えることから、このように呼ばれているといいます。

当寺は『新編相模国風土記稿』によると、鎌倉時代の建仁(けんにん)元(1201)年源頼朝夫人の北条政子により建立されたといいます。建仁元年は、頼朝の死(正治元年・1199)から2年後で、三回忌にあたる年です。

山号を石蔵山(せきぞうざん)といい、開創当初は浄土宗で本尊は釈迦如来像でした。

この地は中世白根郷に属し、鎌倉末期には赤橋北条氏の所領であり、幕府滅亡後は足利尊氏の妻・赤橋登子から足利義詮と伝わり、足利将軍家の直轄領(御料所)であったと推定されています。

扇谷上杉氏が相模守護となり、糟屋の地に守護所が置かれたため糟屋には様々な文化人が訪れたようです。詩僧万里集九(ばんりしゅうく)は糟屋に泊まり、江戸に向かいました。浄業寺には京都東山十住心院(じゅうじゅうしんいん)の住持であった権大僧都で連歌師の心敬(しんけい)が、文明3(1471)年頃寓居したようです。心敬は太田道真・道灌親子とも連歌などを通して親しく交流しました。心敬がここで著した『老いのくりごと』には、寺の「本堂苔に古(ふ)り、台傾(かたぶ)き檜皮(ひはだ)破れて・・・」とその様子を記しています。文明7(1475)年4月12日、心敬はこの地で没しました。寺跡の南側丘陵上に「しんけい塚古墳」があります。心敬はこの古墳の傍らに葬られたのではないかともいわれています。

その後長く荒廃したようです。江戸時代前期中国・明の禅僧・隠元が渡来して、禅宗の一派である黄檗宗を伝えました。隠元の法をつぐ黄檗宗の高僧・独本性源禅師が江戸の新山氏と力を合わせ再興しました。江戸の豪商が力が大きかったようです。

明治維新後は寺領も減り、檀家も少ない寺は衰微に向かったようです。明治37(1904年7月の大雨により裏山が崩壊し、建物は壊滅しました。再建活動は続けられましたが、明治41(1908)年、ついに廃寺となりました。

当寺の本尊・釈迦如来像は小田原市入生田(いりゅうだ)の黄檗宗・長興山紹太寺(ちょうこうざんしょうだいじ)に、昭和4年4月4日に遷座したことが同像の首の中に墨で書かれています。

権大僧都:僧侶の地位をあらわすもの。僧正に次ぐ地位。のちに4つの階級に分かれた。(大僧都、権大僧都、小僧都、権小僧都)

 

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教育部 教育総務課文化財係

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