日向・宝城坊本堂(薬師堂)について

公開日 2013年11月12日

『相中留恩記略』の図

『相中留恩記略』内本堂の図

左の図は、江戸時代末の天保10(1839)年に成稿なった『相中留恩記略』という書籍にある本堂の図です(実際の挿図を画像ソフトにより加工してあります)。

『相中留恩記略』は挿図の作者の力量によるものか、対象を比較的正確に描いているようです。草葺きと思われる屋根の優美な曲線が見てとれます。

 

 

 

 

宝城坊の建造物

 現在宝城坊にある建造物は、本堂、仁王門、鐘堂、宝城坊庫裡、宝殿(文化財収蔵庫)です。このうち江戸期に建てられた建造物は前の3棟のみです。しかし、この絵が描かれた頃には、薬師堂(現本堂)、薬師堂裏手には七社権現社・拝殿、勢至堂、行者堂、鐘堂、宝城坊庫裡、仁王門などの堂宇がありました。

天保12(1841)年成立の『新編相模国風土記稿』(以下『風土記稿』)ではこのほか、東照宮、千手堂、天神社、子権現の建物も描かれています。薬師参道入口にある日向神社(白髭神社)も宝城坊持ちでした。

重要文化財指定

本堂は平成7年12月26日に国重要文化財に指定されました。指定理由は、「簡素ながら古材を採用して中世的な趣を伝える広大な内陣空間と、近世的な華やかな外陣の架構にみるべきものがある」とのことです。

寄棟造の茅葺きの七間堂といわれる建物で、その規模は、

正面の幅(桁行):七間(約22.7メートル)、

奥行き(梁間):五間(約21メートル)

棟の高さ :約17.7メートル

平面積:429.3平方メートル

軒面積:643.9平方メートル

屋根面積:1,043.6平方メートル

本堂の変遷と修理の歴史

本堂内部の図

本堂内部の前の二間は、土間床の外陣(げじん)で、引き違いの格子戸(こうしど)を境に後方3間は内陣となり、かつては宝殿内の重文薬師如来両脇侍像始め諸仏が安置されていました。

図にあるような外陣・内陣なありようは、密教本堂式の型の一つで、規模の大きい七間堂としては県下唯一といえます(『神奈川縣近世社寺建築調査報告書』)。

本堂を含む日向薬師の堂宇の変遷は、資料的な制約からあまりたどることができません。しかし、平安・鎌倉時代に多くの仏像が製作されています。これらを安置する建物は当然存在したものと思われます。建暦元(1211)年に北条政子と将軍実朝の妻が参詣し、一泊して帰っています。このことから貴人が泊まれるような建物があったといえます。また、この参詣は一泊していることから特別な行事が想定され、堂伽藍か仏像の落慶式ではなかったかという考えもあります(『伊勢原町勢誌』)。

康暦2(1380)年にその内容が不明ですが、堂宇の修理がなされています。この修理から280年後の万治3(1660)年、本堂薬師堂を修理したという棟札があったようです(『風土記稿』)。丹沢の御林(おはやし)から立木百本をいただいて行なわれたようです。

本堂正面扉の写真 

次に元禄2(1689)年に一部修理が行われたことが、本堂正面の扉にある金具の銘文からわかります。

さらに万治3年から83年後の寛保3(1743)年から延享2(1745)年にかけて本堂・仏像を修理しています。本尊薬師如来の台座が修理されたようです。本堂は丸柱38本中25本を替えたとあり、大修理であったことがわかります。

これ以降は茅葺き屋根の葺き替えは続きましたが、大規模な修理は行われなかったようです。

大正12(1923)年9月1日に発生した関東大地震により、仏像等が被害を受けました。仏像は昭和3年になり修理されました。本堂の被害状況は不明ですが、本堂正面を除く左・右・裏の三辺の軒先を支える電柱は震災以降といわれています。

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教育部 教育総務課文化財係

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