戦争体験インタビュー

公開日 2020年08月15日

更新日 2024年03月28日

「戦争体験インタビュー」は、市内在住の戦争体験者に、当時の生活や戦中・戦後の様子についてお話しいただいた記録映像を、東海大学文化社会学部広報メディア学科・水島ゼミの学生たちが編集したものです。
 現在、市立図書館2階の「伊勢原市インフォメーション」コーナーで配架しており、原則、館内のポータブルプレイヤーでのみ視聴することができます。
 終戦から70年以上経ち、当時の体験者は減少の一途をたどり、戦争の記憶は日々遠ざかっています。貴重な「歴史の語り部」のお話しに耳を傾けてみませんか。

次に、戦争体験インタビューの一部(テキスト形式)をご紹介します。

田中米昭さん

田中米昭さんは昭和9年に東京の目黒で生まれました。終戦前年の昭和19年に父親の実家がある東大竹に疎開。伊勢原で終戦を迎えました。

【当時の食生活について】
食生活なんていうのは惨憺たるものです。米がね、戦争中(の配給)では成人男子が1人1日2合ちょっとでした。子どもはその半分ぐらいだと思います。でも配給で米がくればまだ良いほう。米は(ほとんど)配給されないわけですよ。米の配給がないので、小麦、豆かす、大豆かす・・・。それと「なんだ?」と思ったのは、黒砂糖が米の代わりに配られるわけですよ。黒砂糖が米の代わりに食べられますか?配給でいい物はなかったですね 。
 戦争中は国民生活が統制されてますから、みんな配給制なんですよね。米・酒・砂糖・醤油・油・たばこ。みんな配給制なんです。うちの親父は酒飲まなかったんだけど、酒を飲んでも飲まなくても配給(酒)はくるんですよ。だから、どこかへ行って米と替えてくるんです。だから戦争中はよかった(米が食べられた)。でも、戦後はそんなにきちんと配給制がされてなかったように思いますね。当時は小学校5・6年だからそんなに詳しくは覚えてないんですけど、そんなにいいものは配給にならなかったと思います。

【伊勢原での出来事について】
 伊勢原の出来事で(覚えてるの)はね、機銃掃射で(知人が)1人死んでるんですよ。伊勢原が空襲になったときに、今のブックオフ隣の第一分団のとこにあった火の見櫓で、空襲でもって(知人が)ジャンジャンジャンと鐘を鳴らし続けたの。そしたらね、機銃掃射で撃たれて亡くなったわけです。ほかの人が「危ねーから降りてこい!」と言ったんだけど、聞こえないでやってて撃たれちゃった。私も機銃掃射は1回やられそうになったことがあるんですよ。伊勢原小学校の裏側に防空壕があって、(空襲のときは)そこへ入ることになっていた。で、空襲になって全校生徒が入って、私は6年生だったんで最後の方に入ろうとしたら、大山の方から低空で飛行機がピ ューと来て・・・。撃たれなかったんですけど、本当に(操縦士の)顔が見えるくらい近くに来た気がしましたね。

【終戦の日の記憶】
 あまり覚えてないんですよ。(そのときは)多分外で遊んでいたと思うんですよね。それで(家に)帰ってきて「戦争終わった よ」と言われて「ああそう」ということは言ったと思うんだけど・・・。「ああ、戦争終わったんだ」と思ったのは確かなんですよ。でも実感が湧いたのはね、その夜に小田急線が満開色で、電球をいっぱい点けて行ったのが、とても印象に残ってますね。「ああ、これで戦争終わったな」と、そういう感じでしたね。だから(玉音)放送については聞いてないんですよ。

山岸正江さん

山岸 正江さんは昭和11年に大山で生まれました。終戦時は小学4年生。川崎から疎開していた児童が空襲で亡くなったことや戦後、学校で行われた教科書の墨塗り等についてお話しいただきました。

【戦時中の生活について】
 小学3年生の時に母が病気になり、あまり身体を動かせなかったので、私が料理を作るようになりました。その都度、母の枕元に行き、料理のやり方を聞いてました。当時1歳の弟がいたのですが、母の体調が優れず、母乳をあげられなかったため、外でかつおぶしをふりかけたお弁当や、たまに炒り卵などを食べさせてましたね。甘いものといえば、サッカリンやズロチンなどで肝臓に悪い甘味でした。農協の婦人部がよく売っていましたね。
 農家の人は一日中働いていました。かわいそうだったのは農家のお嫁さんですよ。妊娠していて大きなお腹していても荷物を背負って農作業をしなくてはならない。それで帰ってくると水汲みですよ。とにかくみんな朝から晩まで働いていましたね。

【一番心に残ることは】
 一番心に残っているのは、川崎から来た学童疎開の子どもが一人爆弾で亡くなったことですね。疎開の人というと、もう焼け出されて何も無くなった人が大山へ来た訳です。田舎でしたので働けず、生活もままならないので顔色が悪く、着ている物も薄汚れていましたね。そういった子たちに、ときどきですが話しかけに行ったりしてました。

【終戦の日の記憶】
 終戦を迎えた日はすごく暑い日で太陽がギラギラしていました。それで今日(玉音)放送があるからと聞いて・・・。家にラジオがありませんから、近所の家に行って周りの人もみんなその家に集まって聞いていたんですね。
 そしたら夕方になって近所の人が「日本負けたんだとよ」って言ってきたんですね。それで負けたんだと知りました。以前、母に「戦争やめたって言って相手を油断させて攻撃すれば」と言ったことがありまして、すると「そんなことできるか、やめたって言えばアメリカの人が来て殺されるんだよ!」と言われたんですね。それで敗戦と知ったときは敵国が攻めてくるのではと思い、少しでも身を守るために急いで父の浴衣を着ました。
 終戦で変わったことは、道を歩いていても飛行機が飛んでこないので安心して暮らせるようになったことです。戦時中は学校の行き帰りも民家の軒先に隠れながら気を付けて帰ってました。あとは、夕方に灯りが点いていたことですね。空襲があった時は、電灯に黒い布を覆っていましたがそういうのも取り除いたし、夕方になっても暗いところでご飯を食べずに済んだ。その前は縁側に出て月明かりでご飯を食べてました。

 亀井フジヱさん

亀井フジヱさんは昭和8年に生まれ、大田村で育ちました。平塚が近かったため、空襲の実体験や軍隊の駐留、勤労奉仕等についてお話しいただきました。

【戦争中の生活について】
 戦争が一番激しくなったのは、私が小学校6年生の時だったと思います。8月15日(終戦の日)が6年生だったと覚えてますけど、その頃は本当に食べ物もなく、学校に行くにも運動靴が無くて夏でもみんな裸足で行ってました。当時は勉強らしい勉強をしなかったです。

とにかく、戦争が激しくて夜は空襲警報が鳴れば蓮華寺(※1)の下に防空壕を掘ってそこへ避難してました。
 お寺には、当時集団疎開で川崎から来てた生徒が本堂で寝泊まりや廊下で勉強したりしてました。20人以上はいたと思います。お寺でもそれだけの人数をお風呂に入れられないので、近くの家に生徒が2人ずつお風呂に入りに来るんです。そういった生活が続いていました。

【空襲について】
 麦刈りの最中に空襲警報が鳴ったことがあったんです。6月20日くらいだったのかな。麦を取り入れるときに車が通れないからと言って、戦車をどけてもらいたいと頼んで西沼目の方に3台ほど移動してもらったんですよ。そのとき、戦車を動かしているのを飛行機に見られたみたいなんですね。小型飛行機が低空飛行で接近して、私の実家を攻撃したんです。布団をかぶって隠れていると、私から1mくらいのところを弾が通っていったんです。私の家の北側には家も何も無く、それで標的にされてしまったんでしょうね。家に弾が入ってきて仏壇の位牌が倒れたり、お茶碗に弾が当たったり、食器棚を貫通して土間の壁に当たって、弾がぬか床に落ちていたの憶えています。
 空襲の時の記憶はよく残っています。ただただ怖かったです。

【終戦の時について】
 横浜でガソリンスタンドを叔父がやっていて兵隊との付き合いがあったみたいなんです。その兵隊さんが「戦争はあと2、3日で終わるから」と(言っていたのを)子ども心に聞いたのを憶えています。
 よかったのは、終戦したら夜中に起きなくてすむようになったこと。空襲警報だと起きて防空壕に逃げなくちゃいけないけれど、これからは毎日朝まで安心して寝ていられる(と思いました)。
 あとは戦争が終わっても食料はすぐには良くならなかったです。当分の間は食べ物がなくて、しょっちゅうお腹が空いている状態でした。戦争が終わって配給でお砂糖が少しくるようになったんですね。ただその時は、配給だからそんなに自由に使えず1kg 程の砂糖を親がすごく大事に使っていたのを覚えています。

※1 蓮華寺:伊勢原市沼目に現存する寺院。

鈴木日出夫さん 

鈴木日出夫さんは横浜に生まれ、昭和19年に横濱商業を卒業。その後、石川島航空工業で零戦の発動機製造に携わり、戦後は英語力を買われ駐留米軍に勤務しました。

【戦前の日米関係について】
 横浜で生まれ育った身からすればアメリカが敵になるとは思わなかった。7月4日にアメリカの独立祭というのがありまして、横浜で当時花火といえばアメリカの独立祭の花火が主だったんです。横浜港を利用してたくさん花火を上げて日本とアメリカの国旗が掲げてあって、私は花火大会というと今や全国でありますが、横浜のそのアメリカの独立祭の花火しか頭にないんだよね。

【当時の食生活について】
 原爆が落ちて、その翌々日かな、食べ物がないからね、おかずがあるとのことで磯子の方にアサリを採りに行った覚えがある。アサリ採りながらね、「(今ここに)爆弾が落ちてきたら定めだなぁ」って思いました。
 終戦して2、3日経って横浜の年寄りが疎開した所があるのですが、そこに行っていた時に外からガタガタと人の足音がずいぶんするんですよ。何だろうと思ったら、「これから暁部隊(沿岸を守るため設立された陸軍の部隊)の壕へ行くんだ」って。部隊は横浜の海のそばに配置されていたんです。壕の中にはいろいろな物資が置いてありまして、それで「今からそこに行くんだ」ってみんな走って行った。それで、電気のない所で扉をこじ開けて「我々が苦しいときでも良い思いをして色々な物を貰っている。だからかっぱらっていこう。誰も文句を言う者はいない」ということで、そこの物資をかっぱらいにみんなで入った。どういった志の人だって本当にもう惨めな気持ちでやってました。

【終戦の日の記憶】
 横浜海兵団ってのかな、終戦直前にできた海兵団の部隊があるのよ。そこで兵隊がババッと出てきて白い軍装して、小銃を持って、水筒持って「これから東京に行く」って3、4台のトラックに乗ってバアーて(走って)行ったよ。あくまで終戦反対の人たちだったんだろうね。それで、空には零戦やC10とかが盛んに飛んでいるんだよ。厚木航空隊は絶対降伏しないってビラを撒いていた。

【若い人たちへメッセージ】
 どこの国で生まれようが人間は人間。だからやっぱり人の命を大切にしてほしい。命だけじゃなくて、生き方というか、人の心を傷づけないことが大切だと思うよね。

お問い合わせ

市民生活部 市民協働課 市民協働係
住所:伊勢原市田中348番地
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