公開日 2015年02月27日
更新日 2015年03月03日
鈴川公園周辺の工場団地を抜けると、鈴川リバーサイドが待っています。見晴らしも良いため、景色が良く、気持ち良いコースになっています。文化財も市指定文化財である串橋中世石塔群〔(伝)善波太郎の墓〕や弥生時代中期後半の環壕集落が見つかった宮ノ根遺跡があります。
コース難易度:初級コース(ちょっと散策。比較的短いコース。4キロメートル程度。約1時間。) |
距離:4.0キロメートル 時間:60分 消費カロリー:約180キロカロリー 歩数:6,000歩 |
1.鈴川公園【トイレ】 ⇒ 2.アクアクリーンセンター(1.0キロメートル 10分) → 3.串橋中世石塔群〔(伝)善波太郎の墓〕(2.0キロメートル 25分) → 4.雷電神社(2.5キロメートル 30分) → 5.宮ノ根(みやのね)遺跡【トイレ】 ⇒ 1.鈴川公園【トイレ】 |
コースマップ
コース案内
串橋中世石塔群〔(伝)善波太郎の墓〕
地元では善波太郎の墓として伝えられている中世の石塔群で、五輪塔(ごりんとう)、宝篋印塔(ほうきょいんとう)、宝塔(ほうとう)、板碑(いたび)断片などで構成されている。板碑を除く他の石塔類は安山岩を加工したもので、永い年月の間に部材が失われたり、組み合わせが変わったりしたものもある。五輪塔の時期は鎌倉時代後半から戦国時代(13世紀~16世紀後半)にわたり、宝篋印塔の時期は室町時代中期から戦国時代(14世紀後半~16世紀)となる。宝塔は大型の2基が室町時代初期(14世紀中頃)、小型の2基が室町時代後期から戦国時代(15世紀~16世紀)と考えられる。平成14~18年度にかけて伊勢原市教育委員会が発掘調査を実施し、平安時代末から室町時代の土器、平安時代から鎌倉時代にかけての蔵骨器(ぞうこつき)などが出土した。伝承によると市内善波を拠点とした善波氏との関係が考えられるが、石塔が無銘のため確認することはできない。平成20年度に敷地の保全整備を行い、一般に公開している。
宮ノ根(みやのね)遺跡
市内では弥生時代前期の遺跡は見つかっていない。最も古い弥生時代の遺物は高森・赤坂遺跡で出土した土器で、弥生時代中期前半のものである。その後、中期後半になると、愛甲石田駅南の峯(みね)遺跡や高森の宮ノ越(みやのこし)遺跡、串橋(くしはし)の宮ノ根(みやのね)遺跡で村の周りを深い溝で囲った環壕集落(かんごうしゅうらく)が見つかっている。環濠は戦いから村を守る防御施設といわれ、本格的な水田耕作の浸透により、村の間に争いごとが生じていたことを示している。村どうしにも、そして村の内部にも、持つものと持たざるものの格差が生まれ、人々の間には階級的な差異ができ始めた。特に西日本では矢じりが刺さったり、刃物の傷がついたりした人骨が発見されており、集団間の激しい戦闘があったことを物語っている。中国の歴史書『魏志』倭人伝や『後漢書』東夷伝に登場する「倭国」が武力抗争によって乱れていたという記述とも合致する。関東地方ではそれほどの激しい戦いがあった証拠は見つかっていないが、少なくともこの時代が穏やかで平和な社会だけではなかったことは確かなようである。