鎌倉時代 

公開日 2012年10月04日

いせはらの歴史

鎌倉時代

鎌倉武士といせはら

岡崎四郎義実の墓

平家追討の狼煙(のろし)があがった頃、このいせはらの地にもすでに武士が誕生していました。市内岡崎の無量寺(むりょうじ)周辺から平塚市域にかけては、岡崎城と呼ばれる居館(きょかん)があったといわれています。城主、岡崎四郎義実(おかざきしろうよしざね)は三浦半島に本拠を置く三浦氏の一門で、義実は源頼朝より30歳以上も年上でしたが、石橋山の戦いには息子の真田与一(さなだよいち)とともに参戦し、その後も頼朝につき従って鎌倉幕府成立の功臣(こうしん)となりました。

同じ三浦氏の一族で、当時石田を本拠にしていたのが石田次郎為久(いしだのじろうためひさ)です。為久は源範頼(みなもとののりより)、義経(よしつね)らの木曽義仲(きそよしなか)追討軍に加わり、北陸へ落ち延びようとした義仲を討ち取った当事者です。石田の円光院北側の台地が石田氏の館跡といわれています。

平塚市岡崎に残る岡崎四郎義実の墓

東の石田、南の岡崎に挟まれて、平安時代の終わり頃のいせはらの大部分は糟屋庄(かすやのしょう)と呼ばれる荘園となっていました。この糟屋庄に館を構えていたのが糟屋藤太有季(かすやとうたありすえ)です。

糟屋氏は三浦氏と同様に早くから源氏に従っていましたが、糟屋有季の父盛久(もりひさ)は石橋山の合戦には平家方の武士として名を連ねています。しかしその後、有季は源範頼、義経の平家討伐軍に源氏の兵として従軍し、平家滅亡後には頼朝の命に応じて義経追討の任にもついています。また、頼朝が上洛(じょうらく)したときにも、岡崎義実らとともに随行(ずいこう)しています。  

               

                                                                          

浮世絵 芳虎作 栗津原ノ合戦

      江戸時代の浮世絵に描かれた石田次郎為久が木曽義仲を討つ場面

浮世絵 二代広重 建久六年源頼朝卿上京之図

    浮世絵に描かれた頼朝上洛の場面。糟屋有季、岡崎義実も同行しました

頼朝と政子

宝城坊大太鼓の写真

鎌倉幕府の創始者となった源頼朝もまた、いせはらには深い関わりをもっていました。元暦(げんりゃく)元年(1184)、頼朝は大山寺に田畑を寄進し、妻の政子(まさこ)が実朝(さねとも)を出産する際には、相模国中の神社仏閣に神馬を奉納しています。その中に大山寺、日向山霊山寺(ひなたさんりょうぜんじ)、三宮冠大明神(さんのみやかんむりだいみょうじん、現在の比々多神社)の名があります。建久(けんきゅう)5年(1194)には娘の病気平癒(へいゆ)を願って霊山寺に参拝し、その後も使者を遣(つか)わして自らの歯の病が治るよう祈願しています。その妻政子も頼朝の死後、二度にわたって霊山寺に参拝しました。さらに、亡き夫を祀って市内三ノ宮の浄業寺(じょうごうじ)を建立したといわれています。

源家による将軍が三代で絶えると、鎌倉幕府は執権(しっけん)の北条氏によって運営されるようになりました。100年以上に及ぶ北条氏の治世(ちせい)には、武家による政治制度が整えられましたが、相次ぐ天災や飢饉(ききん)が一揆(いっき)を引き起こし、また元軍(げんぐん)の襲来(しゅうらい)や相変わらずの政権争いが社会を揺るがしていました。皮肉なことに、こうした社会情勢が平安時代とは異なる厳しくひたむきな仏教を興隆(こうりゅう)させ、市内にも鎌倉時代の造立とされる仏像が宝城坊の十二神将像、大山寺の鉄造不動明王像など、二十数体残されています。

上の写真は、頼朝が奉納したといわれる宝城坊の大太鼓です。直径1.4メートル。県指定重要文化財に指定されています。
 

鎌倉時代の市域と武士達の動向

鎌倉幕府創業者の頼朝が亡くなると、北条氏が政権の中枢を握るようになり、幕府内の有力武士の力をそぐ方向に進みます。伊勢原市内の武士も北条氏の陰謀にからみ、その嫡流は消えていきました。

まず、建仁(けんにん)3年(1203)に起きた比企(ひき)氏の乱により糟屋有季が比企一族とともに自害しました。この後糟屋庄の支配は糟屋氏の手を離れたと思われます。糟屋氏の嫡流(ちゃくりゅう)は失脚しましたが、これ以降も糟屋氏は歴史に名前を残しています。後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が幕府を相手に起こした承久(じょうきゅう)の乱では、上皇方、幕府方ともに糟屋を名乗る武士が登場します。有季の兄弟の子孫と思われる糟屋氏は北条政村の子孫に仕えていましたが、鎌倉幕府滅亡時、近江(滋賀県)番場(ばんば)宿で北条氏らとともに自害し、その墓は番場の蓮華寺にあります。

建保元年(1213)には、和田義盛(わだよしもり)が北条氏に対し反乱(和田合戦)を起こし、和田方に加わった岡崎義実の子どもらが滅び、岡崎の地は没収されました。 

さらに、宝治元年(1247)三浦泰村(みうらやすむら)は北条方の安達景盛(あだちかげもり)らに挑発され、反乱(宝治合戦)を起こしました。この乱に敗れ三浦一族石田氏の本領石田の地は没収されました。

鎌倉幕府が滅び、後醍醐(ごだいご)天皇は足利尊氏・直義(ただよし)に北条氏の旧領を与えました。その所領目録によると、糟屋庄は、北条氏の一族大仏貞直(おさらぎさだなお)の所領であったようです。

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