縄文時代 

公開日 2012年10月04日

いせはらの歴史

縄文時代

狩猟(しゅりょう)と採集の生活

今から1万2千年ほど前、気候は次第に暖かくなり、海水面が上昇して日本列島は大陸と切り離されつつありました。こうした気候と地形の変化は動物や植物にも大きな影響を及ぼしました。植物では、寒冷地に特有の針葉樹林(しんようじゅりん)が後退し、ナラ、ブナ、ニレなどの落葉広葉樹(らくようこうようじゅ)の森が広がりました。こうした木々は秋になるとドングリやシイの実といった食べられる実をつけ、旧石器時代にはなかった新たな食糧となりました。動物も大型獣が数を減らし、イノシシやシカ、ウサギなどの中小の動物が増加しました。

約1万2千年前から始まり、1万年間続くこの長い時期が縄文時代で、人々の生活も環境の変化に順応して大きく変わっていきます。そのひとつが土器の発明です。三之宮比々多神社境内の宮ノ前(みやのまえ)遺跡で発見された土器は、日本はもとより世界でも最も古い部類に属する土器です。この土器の発明により、食材を煮炊きして食べることが容易となりました。

また、同じ遺跡からは弓矢の先につけた石の矢じり(有舌尖頭器=ゆうぜつせんとうき)がたくさん出土していますが、この弓矢の発明も動きの速い中小の動物を捕るための工夫です。この矢じりを作っていた遺跡が、数百メートル離れた三ノ宮・下谷戸遺跡で見つかっています。

三ノ宮・宮ノ前遺跡出土の土器写真
三ノ宮・宮ノ前遺跡出土の土器
三ノ宮・宮ノ前遺跡出土の矢じり写真
三ノ宮・宮ノ前遺跡出土の矢じり

            環境の変化に順応した縄文時代の新しい発明品です。

定住と集落の拡大

三ノ宮・宮ノ前遺跡出土釣り針の写真
   鹿の角で作られた釣針
大型の魚を釣るためのものです。
  三ノ宮・宮ノ前遺跡出土
 
 
坪ノ内・久門寺遺跡出土のヒスイ製ペンダント写真
   ヒスイ製のペンダント
お守りとして身に付けていたもの
と考えられます。
  長さは、5センチ4ミリ
  三ノ宮・宮ノ前遺跡出土

市内では、高森の白金山(しろがねやま)遺跡で約8千年前頃のものとされる住居跡が見つかっています。この頃から人々は竪穴住居(たてあなしきじゅうきょ)を作って定住する生活を始めたようです。4、5千年前頃になると、比々多(ひびた)地区、伊勢原地区、岡崎地区にたくさんの住居が造られました。3千年前頃には、東大竹の八幡台や日向の下北原に大集落が作られています。人々は山や林から木の実や山菜を採り、狩りで動物を捕まえ、海では魚や貝を採りました。市内の遺跡からは、鹿の角で作った釣り針やサメの歯も見つかっています。本格的な集落が営まれるようになっていったのは、環境に恵まれて安定した食料が確保されるようになったからと考えられます。

カミカスヤ・神成松遺跡の竪穴住居写真

市内では、信州や箱根、神津島産の黒曜石が石器に加工されたり、糸魚川(いといがわ)産の翡翠(ひすい)が装身具として発見されたりするほか、青森地方の特色を示している土器もあり、思わぬ遠隔地とも交流をしていたことが分かります。また、石を敷き詰めた敷石住居や石を組んで作った墓なども見られ、八幡台の山王塚(さんのうづか)遺跡では墓穴の中から歯や骨の一部とともに、土で作ったピアスと美しい文様の小さな土器が見つかっています。坪ノ内の久門寺(くもんじ)遺跡や池端の駒形(こまがた)遺跡では女性をかたどった小さな土偶(どぐう)が出土しています。これらは死者を弔(とむら)い、自然の恵みや多産を祈願したものと考えられています。

上粕屋・神成松遺跡で見つかった竪穴住居
石で囲った炉(いろり)が見えます。
〔(株)玉川文化財研究所調査〕

縄文時代末期になると、気候は再び寒冷化し始め、関東地方でも発見される遺跡の数が激減します。市内ではまだこの時期の遺跡は見つかっておらず、大きな集落を作り上げた人々がその後どうなってしまったのか、明らかにはなっていません。

山王塚遺跡出土の注口土器写真

 

  死者に供えられた土器

  美しい模様で飾られています。
   高さは、8センチ7ミリ。山王塚遺跡出土

池端・駒形遺跡、坪ノ内・久門寺遺跡出土の土偶写真

  人の顔を表した縄文時代の土偶

  画面左側の大きさは、縦4センチ6ミリ。
   池端・駒形遺跡、坪ノ内・久門寺遺跡出土

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教育部 教育総務課文化財係

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