室町時代 

公開日 2013年06月03日

いせはらの歴史

室町時代

上杉家の争いと太田道灌

太田道灌画像写真

元弘(げんこう)3年(1333)、足利尊氏(この時点では高氏ですが、尊氏と統一)の離反をきっかけとして鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇による政治が開始されました。しかしその復古調の政治に対し多くの武士らが反発しました。源氏の棟梁としての尊氏の周囲にはそうした武士が集まり、やがて新たな武家政権を樹立します。

京に幕府を開き、鎌倉には鎌倉府を置き、子の足利基氏(あしかがもとうじ)に東国の支配にあたらせました。これが鎌倉公方(かまくらくぼう)で、代々続きますが、次第に京の幕府・将軍に反する言動が目立ってきます。 鎌倉公方を補佐する管領(かんりょう)には康安2年(1362)からは上杉氏がなり、代々受け継ぐ形になりました。上杉氏は山内(やまのうち)・犬懸(いぬがけ)・宅間・扇谷(おうぎがやつ)などの家に分かれていましたが、管領職は山内上杉氏が独占するようになります。扇谷上杉氏は、顕定(あきさだ)が丹波(京都府)から相模鎌倉の扇谷に移り、居館を構えたのが始まりです。顕定の父、上杉宮内大輔藤成は観応(かんのう)2年(1351)には、「糟屋庄政所職(まんどころしき)」にあったといわれ、ここに以後の扇谷上杉氏と糟屋のつながりが推定できます。

上の写真は、下糟屋の大慈寺に伝わる太田道灌画像(江戸期)。市指定文化財です。

鎌倉公方4代持氏は、室町幕府5代将軍義教(よしのり)と鋭く対立し、幕府と鎌倉府の間にたち調定に腐心した管領上杉憲実(のりざね)とも対立し、合戦に及びました(永享の乱・1438)。結果持氏は破れ、翌年鎌倉永安寺(ようあんじ)で自刃しました。さらに永享12年(1440)、結城氏朝(ゆうきうじとも)ら北関東の武士達が持氏の子を擁立し、結城城に籠もりました(結城合戦)。黒田基樹氏は、この合戦の功績で扇谷上杉持朝(もちとも)は相模国守護となったと考えています。守護代は太田道真(おおたどうしん)です。守護所が扇谷上杉氏の所領、糟屋庄に置かれ、以後扇谷上杉氏の相模支配の拠点となります。この拠点が、現在「上杉館」とか「糟屋館」と呼ばれるものと思います。太田氏も糟屋に屋敷を持っていたとも想定できます。

持氏没後、しばらく鎌倉公方は空席となりますが、将軍義教が赤松氏に殺されるという事件ののち、持氏の子が鎌倉公方とされ、成氏と名乗ります。しかし、鎌倉に入った成氏と上杉方の対立は深く、宝徳4年(1450)4月、山内上杉氏の重臣長尾景仲(ながおかげなか)と扇谷上杉氏の家宰太田道真らの軍勢が成氏の御所を襲います。成氏は江ノ島に移り、由比ヶ浜一帯で合戦となりました(江ノ島合戦)。上杉方は破れ、糟屋庄へ逃れます。さらに享徳(きょうとく)3年(1454)、成氏は憲実の子で管領の憲忠(のりただ)を殺してしまいます(享徳の乱)。以後30年続く大乱の勃発です。成氏は鎌倉から下総古河に移ります(古河公方)。関東は荒川(元荒川)を挟み二つに分かれ、対立が続きました。

享徳4年(1455)正月6日に糟屋を出て相模国島河原(平塚市)へ向かった上杉持朝らと成氏側が激突し、上杉方が敗れ伊豆へ逃れました。

長禄元年(1457)、太田道真・道灌父子は、成氏に対するため江戸・河越両城を取り立てます。以後扇谷上杉氏の拠点は河越に移ります。

古河公方との戦乱が続く中、文明8年(1476)、山内上杉氏の家宰職の継承をめぐり長尾景春が反乱を起こします。この乱を鎮めるため太田道灌は相模から上野(こうずけ)まで走り回ります。相模では景春与党の小沢(愛川町)、溝呂木(厚木市)、小磯(大磯町)などの要害を攻め落としています。文明12年(1480)、秩父の日野城を道灌が攻略して漸く景春の乱は終結します。

文明14年(1482)、室町幕府と古河公方足利成氏と和睦が成立します。これ以降山内・扇谷上杉氏の関係が微妙になってきたようです。

文明18年(1486)7月26日、太田道灌は扇谷上杉定正により相模糟屋に招かれ殺されてしまいました。道灌はいずれ山内上杉氏と戦端が開かれることを見越して河越・江戸城を修築したりしていました。翌、長享元年(1487))下野で両上杉は戦端を開きます(長享の乱)。

長享2年(1488)2月5日、山内上杉顕定は相模国糟屋に千余りの軍勢を率いて押し寄せ、七沢城(厚木市)を落としました。急を聞いて扇谷上杉定正が河越城から二百余騎で駆けつけ、実蒔原(伊勢原市・厚木市)で激突し、かろうじて定正が勝利します。

これ以降中世の相模糟屋の動向は不明です。近年発掘調査が進み、その大規模な遺構が注目されている丸山城(伊勢原市下糟屋)は、15世紀から16世紀前期の城郭と考えられています。時期的に扇谷上杉氏の守護所との関連を考慮しなければならないと思われますが、従来の上杉館説(市内上粕屋)を十分検討したうえで結論付けるべきだろうと思います。

下糟屋 丸山城写真

下糟屋にある丸山城
国道246号線を挟んで南北に大規模な堀がめぐっています。
〔(株)玉川文化財研究所調査〕

 

伊勢宗瑞(北条早雲)の登場と北条氏の関東支配

文明8年(1476)6月、太田道灌は今川氏の家督争いに介入して駿河に入りました。今川義忠の死により子の龍王丸と従兄弟の範満との争いです。道灌は扇谷上杉氏の血を引く範満を支援しましたが、龍王丸の叔父伊勢氏の調定で取り敢えず争いは収まりました。この伊勢氏が戦国の梟雄(きょうゆう)といわれ、後に北条早雲と呼ばれた人物ですが、近年の研究では大幅に見直されています。

早雲は、今川氏の元で城主となり、延徳(えんとく)3年(1491)、伊豆堀越公方足利政知(あしかがまさとも)の死後に起きた家督争いで義母と弟を殺した足利茶々丸(ちゃちゃまる)を伊豆から追い、しばらくして伊豆国全体を支配するようになっていきます。韮山(伊豆の国市)に韮山城(にらやまじょう)を築き拠点とします。両上杉の争いの中、扇谷上杉氏と連携し、山内上杉氏についた小田原城主大森氏を追い、小田原城を手中に入れます。やがて扇谷上杉氏と決別し、相模中央へと進出します。永正9年(1512)、相模岡崎城を攻め、城主三浦道寸(みうらどうすん)を本拠三浦に追いやり、永正13(1516)年、三浦新井城に三浦道寸父子を滅ぼします。二代氏綱、三代氏康、四代氏政と関東中央から北関東へ進出をしていき、小田原城を拠点に関東一の戦国大名に成り上がっていきます。なお、北条を名乗るのは二代氏綱からです。 

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